理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

29 古代の鍛冶・製鉄(2) 

f:id:SHIGEKISAITO:20190820201352j:plain <五斗長垣内遺跡(淡路島)>

鉄器の舶来
 日本の鉄利用は、製品の輸入から始まりました。
 日本最古の鉄器は、紀元前5世紀頃にシナで作られた鋳造製の斧で、愛媛県の大久保遺跡で出土しています。しかし鉄器の普及というにはほど遠く、鋳鉄の破片を対象に、火を使わず従来からの石器製作技術を駆使して小鉄器を作る試みなどがされたようです。
 紀元前3世紀になると、炭素量が約2%以下の鋼で作られた鍛造鉄器が増え始めます。吉野ヶ里遺跡では甕棺の中から鎌状鉄器が出土しています。
 鉄の利用は徐々に進むものの、紀元前後までは、実質的には石器の利用が中心だったと考えられます。

  鍛造鉄器の製品は、紀元前3世紀に大陸から入ってきていたわけですが、鍛冶技術はやや遅れ、3世紀にかけてまずは九州北部に、ついで瀬戸内海沿岸に伝わってきました。弥生末期、九州北部では鉄器の普及が進み、先進文化の先頭を走ることになるのです。

 鉄利用開始を、弥生前期(紀元前5世紀以前)と主張する識者もいます。しかし、鉄器による加工痕と石器による加工痕ははっきりと識別できるようです。発掘された弥生前期の木製品には鉄器による加工痕は見られず、事実としてそういう論はあり得ないと思われます。

 紀元前3世紀頃から、九州北部に鍛造鉄器が舶来するのと時を同じくして、朝鮮半島南部において弥生土器が見られるようになります。鉄を求めて列島人が海を渡っていた証拠と考えられます。

 鉄製品の舶来は武器から始まり、ついで農耕具、その後、生産用と続きました。しかし、いずれも所有はごく一部の特権階級に限られました。鉄器が弥生時代の遺跡や古墳時代初期の有力者の墳墓から出土しますが、それは権力の象徴、威信財としての意味合いが濃いと言えそうです。
 鉄が産業用ないしは軍事用に有用な役割を果たすのはかなり後のことになります。 効率的な農耕や、鏃などの大量供給、船の量産や本格的な道路建設に必要な産業用工具の供給には、鍛冶技術や製鉄技術の習得と普及が必要なのですから。

  

鉄器の製造開始
 鉄製品の舶来から始まった古代日本ですが、紀元後から古墳時代にかけて農耕工具のような小型鉄器を中心に、鏃などでも国産化が始まりました。輸入した小型鉄器や、板状に薄く鋳込み表面脱炭された鉄素材を、日本国内で鍛冶して製品の形にする原始鍛冶の段階です。

 淡路島の五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡は、紀元後1世紀のおよそ100年間に限って存在した鉄器製造群落です。1棟の中に10基の鍛冶炉のある建物も発見され、弥生時代の鉄器製造遺跡としては最大規模とされます。筆者も見学しましたが、住居は少なく鉄器製作に特化した特異な集落です。
 琵琶湖周辺でも鍛造が行われました。2016年になって、彦根の稲部遺跡で弥生末期から古墳時代初め(3世紀前半)の鉄器工房群の遺構が見つかりました。同時代では他にない規模と推定されています。鍛造品の鉄素材は不定型な鉄器の形で朝鮮半島から輸入していたようです。
 最近のホットニュースとしては、淡路島の舟木遺跡で2世紀~3世紀初頭の鉄器工房群が発見されています。国内最大級の可能性が高いようで、今後の調査が楽しみです。

 

 弁辰は、紀元前2世紀末から3世紀にかけて、朝鮮半島南部における有力な鉄の産地でした。
 『魏志東夷伝』の中に、
 <弁辰は鉄を出す。韓、濊、倭みな従いてこれを取る。諸々の市(し)買(こ)みな鉄を用い、あたかも中国が銭を用いるが如し。またもって二郡に供給す>
とあります。

 弁辰の鉄が貨幣的役割を果たしていたともとれるし、楽浪・帯方の二郡にも供給されていたことがわかるのです。弁辰の記事は、最低でも3世紀頃までは日本で鉄素材の自給ができていなかった証拠でもあります。

 ところでここでいう倭とは何のことでしょうか。
 この時期、倭人というのは、必ずしも日本列島人を指すのではなく、九州北部、西日本の島嶼部、朝鮮半島南部から遼東半島付近で活躍していた海洋民族の総称と考えるべきでしょう。鉄を掘る倭人は半島最南部にも住んでいた可能性があります。また九州北部から海を渡った日本列島人もいたことでしょう。
 畿内のヤマト国が採掘に参加したということは無論あり得ません。

 

 2世紀後半の倭国大乱を鉄の奪取をめぐる九州北部と岡山・近畿連合との争いとして、倭国大乱に勝利した大和地域が3世紀以降の政治権力の中心になったとする説が一世を風靡しました。しかし、大乱の後も、大和において鉄器の普及を示す証拠は見つかっていません。今や「見えざる鉄器説」は完全に破綻しました。これについては、第24回ブログで言及した通りです。

 

 4世紀になると、鉄の有用性が一層認識され、鉄をめぐって資源獲得戦が始まったと考えられます。神功の三韓征伐は創作としか言いようがないですが、その時代に、規模ははるかに小さくとも日本から遠征し、鉄製品・鉄素材を獲得したことは認めてよいでしょう。
 ヤマト国も含め、有力な地域国家はみな手を染めたと考えられます。正規の交易だけでなく、小競り合いも含め、鉄製品や宝物を略奪し、また鉄の工人を捕虜として連れ帰ることもあったでしょう。
 鉄製の斧・丸鑿・槍鉋などが流通し、それまで石器に頼っていた丸木舟の製作が楽になります。この時期、権力の象徴として準構造船の初期のものが、少量であればつくられた可能性があります。
 

 5世紀は鉄の鍛造における一大画期となります。鉄製の鍛冶具が出現するからです。それ以前の原始鍛冶は、鉄製の鍛冶具がなく、床石の上に焼けた鉄を置き、丸石で鍛いて研磨していたようです。金箸もなく竹や木の棒を使っていたと思われます。
 鍛冶具の技術革新を経て、6世紀にかけて大規模な鍛冶工房が列島の各地に展開していくのです。


参考文献
『鉄から読む日本の歴史』窪田蔵郎
『弥生鉄史観の見直し』藤尾慎一郎
『弥生時代の歴史』藤尾慎一郎