理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前後から6世紀頃までの古代史を再考する!

30 古代の鍛冶・製鉄(3)

f:id:SHIGEKISAITO:20190820154801j:plain<菅谷山内高殿(雲南市吉田)>

製鉄の開始は6世紀
 第28回のブログで言及したように、日本神話には、スサノオによるヤマタノオロチ退治の物語があり、これを出雲の砂鉄争奪とからめる解釈があります。したがって、弥生時代の昔から、出雲で製鉄が盛んだったように思われるのですが、文献的には裏づけとなるものが何一つとしてありません。
 むしろ出雲の真砂(まさ)砂鉄は還元性が悪く融点も高いので、製鉄技術の初期段階である「野だたら」では製錬がうまくいかなかったと言われています。

  吉備地方では、砂鉄ではなく主に鉄鉱石を使うことで、出雲よりも早い6世紀後半に製鉄が始まっています。吉備地方は磁鉄鉱の鉱床が層をなしている場所が多く、鉄鉱石の入手が比較的容易でした。

 以降、吉備は一貫して製鉄の中心地となり、自らの隆盛とともに律令国家における鉄の貢納を担っていきます。角田徳幸氏は「律令国家の鉄需要は(一部は播磨があるものの大半は)吉備によってまかなわれていた」「これに対し出雲は鉄の貢納国になっていない」といいます。


 「まがねふく吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけき」という『古今和歌集』の和歌は、吉備が鉄の国として認識されていた9世紀前半に詠まれています。
 しかし、8~9世紀になると、吉備においても高品位の鉄鉱石が枯渇し、製鉄原料は次第に砂鉄に置き変わっていきました。


 日本において、鉄素材をつくる製鉄技術はそれほど早くからあったものではありません。当初の製鉄技術(野だたら)は、天候の良い日に(特定の送風装置を必要としない)自然通風に依存して何日も薪を燃やし続ける原始的な方法です。鉄鉱石であれば、弥生式土器を焼成する程度の7~800度で可鍛鉄を得ることができますが、当然、実用的ではなく量産に寄与するものではありませんでした。

 
 当初は鉄鉱石からスタートした製鉄ですが、日本はいたるところに砂鉄が存在するので、原料も砂鉄に置き換わっていきます。出雲でも6世紀末までには雲南市の羽森遺跡などで砂鉄による製鉄が始まっています。

 

 「たたら」は炉に空気を送り込む鞴のことで、鞴を使う製鉄法を「たたら製鉄」と言います。
 『日本書紀』の天岩屋戸神話の中に、真名鹿の皮を全剥(うつはぎ)にしてつくったという天羽鞴(あまのはぶき)の記事があります。しかしこれは、あったとしても3~5世紀の皮吹子の技術を遡らせて神話に取り入れたものに過ぎません。
 鞴の歴史は謎に包まれていますが、中世の文献からは、踏鞴や吹差鞴の記事が登場するようになります。その後、天秤鞴が導入され、送風能力が飛躍的に改善しました。
 鞴の進歩によって、たたら炉内の温度は1400~1600℃にも達するようになったといわれます。その高温の中で砂鉄が溶け、還元剤である木炭の炭素と融合して高純度の鉄や鋼が生まれるわけです。

  出雲の真砂砂鉄は、良質の玉鋼になるので刃物には適していますが、野だたらでは製錬が難しく、大型鞴の登場を待つ必要がありました。出雲では江戸時代になると高殿のような巨大な設備を備えるようになりました。その一方で小規模な野だたらは全国各地に広がっていったのです。

 

 鉄の歴史は森林伐採の歴史ともいわれます。
 鉄を融解するためには木炭が必要で、古くは炭焼き人も鉱山師を兼ね、冶金と深く関わっていました。彼らは鉄を掘りつくし、炭用の木を伐りつくすと新たな土地を求めて移動しました。漂泊の民です。特殊技術を持つ彼らは畏怖の念を抱かれたことでしょう。金属・鉱山・火の神が日本中のあちこちに見られるのもこのことを裏づけているようです。

 埼玉県児玉郡神川町に鎮座する「金鑚(かなさな)神社」の社名は、このことを示す代表例といえるでしょう。砂鉄を意味する「金砂(かなすな)」が語源であるとか、文献によればこの「かなすな」が「金佐奈(かなさな)」に転訛したとされ、また他説では砂鉄の採集地である「鉄穴(かんな)」を意味するというものもあります。当社の近傍を流れる神流川周辺では古代から刀などの原料となる良好な砂鉄が得られたようです。付近には金屋という集落があり、当社の実際の創始は漂泊の民である採鉱・製鉄集団によって祀られたとの説があります。真偽のほどははっきりしませんが……。

f:id:SHIGEKISAITO:20190820201508j:plain<金鑚神社(埼玉県児玉郡神川町)>

 

ヤマト王権の支配拡大をもたらした製鉄 
 今のところ、たたらを使う製鉄工房の跡としては、6世紀後半の千引カナクロ谷遺跡(原料は鉄鉱石)や遠所遺跡(原料は砂鉄)などが最古とされますが、今後、各地で発見が進めば、技術革新期だった5世紀頃まで遡る可能性は高いでしょう。零細規模であれば、すでに3世紀頃の可能性を指摘される製鉄遺跡が発見されています。

 窪田蔵郎氏も次のように述べています。
 <鉄器は弥生期からすでに使用されはじめており、しかもその後、続々と韓国より帰化人が移住しているのであるから、鉄を加工する鍛治の技術を短期間に卒業し、さらに素材の鉄を造ることへと手を伸ばしていったものと考えられる。>

 また、応神・仁徳の時代、おそらくは5世紀代(異説もあり)に、河内を中心に進められた大規模土木工事があります。これだけの土木工事には鉄製器具・道具が必須とも考えられ、原始的な野だたらや手ふいごを使うような幼稚なたたら炉ではなく、5世紀にかなり進んだ製鉄技術があった可能性も捨てきれません。

 

 製鉄は吉備から始まり、その後急速に日本各地に広がり、7世紀前半までには九州北部、出雲南部、播磨西部、丹後、山城北部、近江などで生産が始まりました。


 5、6世紀には、鍛冶工房の充実・製鉄の開始で鉄素材の供給が増え、武器・武具の高度化、準構造船の建造、山野の開削・高度利用、港の建設、地域間をつなぐ幹線道路の建設などが一気に進むことになります。このような戦闘用具や交通インフラの進歩・拡充があって、遠隔地をも含む地域国家による合従連衡が進んでいくことになります。


 各地域国家も独自に製鉄に取り組んだのですが、財力・技術を蓄積したヤマト王権が次第に優位になります。やがて、技術の囲い込み、交易路の掌握などを通じて突出し、6世紀にかけてヤマト王権の支配が広域に及ぶことになります。

 例えば、単純で集団的な武装具である鏃などは地域色が強いため、各地域国家の王(首長)がおのおの生産を握っていた可能性が高く、複雑な構造を持ち斉一性の高い鉄製甲冑は畿内に生産基盤が集中していた可能性が高いようです。このような技術的優越で、ヤマト王権が各地域国家に影響力を行使していった可能性が想定されます。

 

 通説とは異なり、ヤマト王権の広域支配は短期間(4世紀半ば頃まで)には実現しなかったのです。
 8世紀初頭に、日本における鉄の輸入はピリオドを打ちました。

 

古墳時代中期までの鉄は権力のシンボル
 鉄は軍事・産業の両面できわめて貴重な材(財)であったため、権力のシンボルであり続けました。鉄そのものが貨幣の代わりでもありました。鉄素材である「鉄鋌」は貴重品で、鉄器(製品)に加工しなくても保有すること自体が権力の裏づけでもあったのです。
 しかし、シンボルとしての鉄も、やがて時代の変化に飲まれていくことになります。

 窪田蔵郎氏の次のような見立ては、大いに頷けます。
 <大古墳を築造するほどの貴族や豪族が、鋤・鍬・鑿・槍鉋・やっとこなどのような農耕具類を副葬している理由は、このような生産手段である鉄器の多量な所有者であるという、プライドにもとづくものと考えなければ理解できない。したがって、鉄器が貴重であることが前提となるので、前期、中期の古墳にその副葬が多く、後期の古墳ともなると、このような品物は少なくなる。(中略)おそらく古墳期の中期末以降に、大陸文化の流入が激化して、鉄の量産がすすみ、われわれの想像以上に鉄製品が普及したため、権力の象徴としての鉄のもつ意義が薄弱になった>。

 以上から導かれる結論は、鉄製工具・道具が広く普及して、大々的に武器・武具の製作や船の建造、道路や家屋の建設に活用されるのは、5、6世紀にかけてということです。このことは大変に重要で、3、4世紀までの鉄は威信財としての側面の方が大きかったことになります。
 言い換えれば、鉄は5、6世紀に威信財としての役割を終え、流通拡大によって軍船や交易船が量産できるようになり、 対馬海峡や内海を頻繁に往来できるようになったということです。これは雄略から継体、欽明にかけての時代にあたります。

 

「古代の鍛冶・製鉄」のまとめ
1. 紀元前5世紀~後1世紀(舶来鉄器の使用・破片再生の時代)
 シナに起源をもつ鉄器が日本に現れ、そのまま舶来鉄器として使用するか、鋳造鉄器の破片を割るなどの再加工をして使用した。

2.紀元1世紀~3世紀初頭(原始鍛冶の時代)
 小型鉄器や、薄く板状に鋳込み表面脱炭された鉄素材が日本に持ち込まれ、曲げなど簡単な鍛冶が行われるようになる。
 シナでは脆い鋳鉄鋳物ばかりでなく、鉄鉱石を低温還元焼成してつくられた塊状錬鉄が得られるようになり、脱炭鋳鉄と同時に日本にこれらが持ち込まれるようになり、これらを素材とした鍛冶加工がスタートし、次第に本格鍛冶へと移って行く。

3.紀元3世紀半ば~5世紀(本格鍛冶の時代)
 大陸では塊状鉄精錬が本格化し、鍛冶材料として広く流布。朝鮮半島でもこの塊状鉄精錬がスタートしたと見られるが、はっきりしない。
 この当時 半島朝鮮半島の南部辰韓・加耶と倭国との交流が始まり、4世紀半ばには加耶が鍛冶加工された薄い鉄板(鉄鋌)の供給基地として登場し、渡来人の交流と共に大量の鉄鋌が鍛冶原料として持ち込まれるようになる。
 3世紀には北九州に限られた鉄の先進地が、5世紀には瀬戸内・出雲・吉備・畿内へと東進してゆく。鉄製鍛冶具の出現によって生産効率が飛躍的に高まる。この時期の鍛冶加工隆盛の証しとして、各地で朝鮮半島から持ち込まれた鉄鋌と共に、鍛冶炉跡や鍛冶滓が大量に見つかっている。5世紀後半になると畿内には大県遺跡(北河内)のような大規模な専業鍛冶集団が生まれて勢力を伸ばす。

4.紀元5世紀末~8世紀(鉄生産・鉄の自給拡散の時代)
 その始まりはまだはっきりしないが、おそらく5世紀末から6世紀初頭にかけて 鉄鉱石を原料とした箱型炉による製鉄が吉備で始まり、鉄素材の自給が始まった。また 国内に大量に存在する砂鉄を原料とした精練も始まり、日本での鉄自給の波が西国から東へと広がっていく。
 7世紀末から8世紀には現在の福島県原ノ町近傍(行方製鉄遺跡)まで広がりさらに、9世紀には青森岩木山北山麓での製鉄が確認されている。

 鍛冶・製鉄の歴史を子細に吟味すれば、クニが国(地域国家)へと合従連衡が進み、やがてヤマト王権による広域統治が可能になっていく絵姿が浮かびあがってきます。

 

 今まで、当ブログではヤマト王権による統治拡大の内実には言及していません。
 実際は、3~4世紀頃(5世紀も?)のヤマト国は、生物学的な一系のもとに統治範囲を拡大していったというのではなく、政治的には連続性があるものの、複数の王権筋が統治を担い合ってきたという複雑な事情があります。
 「大和盆地内の古墳分布」や「三王朝交代論」を語るときに掘り下げてみたいと思っています。

 

 

参考文献
『鉄から読む日本の歴史』窪田蔵郎
『たたら製鉄の歴史』角田徳幸
『古代の鉄と神々』真弓常忠
『弥生鉄史観の見直し』藤尾慎一郎
『弥生時代の歴史』藤尾慎一郎
『列島の古代史3 社会集団と政治組織』
他多数