理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前後から6世紀頃までの古代史を再考する!

31 鉄の痕跡を訪ね、秘湯に浸る「奥出雲・雲南の旅」

f:id:SHIGEKISAITO:20190820145651j:plain    < 亀嵩の朝(島根県仁多郡奥出雲)>

 

 鉄がらみの論考が続いたので、ついでに1年前の旅について触れることにします。
 昨年(平成30年)の秋、10月に、奥出雲・雲南一帯(安来の奥に位置する亀嵩から三瓶山の山麓付近まで)をドライブしました。
 筆者は、「全国一宮めぐり」で全都府県の津々浦々に足を運んだので、未踏の空白地がほとんどなくなってしまいました。出雲地方も3回ほど訪ね、名所旧跡のほぼすべてに足を運んでいます。しかしその中で、交通不便の地である奥出雲一円だけが残っていたのです。
 奥出雲といえば、たたら製鉄……。

  古代史ファンとして長い間、気になっていた場所です。そこで今回、一念発起、「鉄文化を体感し温泉に浸るゆったり旅」と洒落こんだ次第。
 3泊4日で奥出雲の山間地をドライブしました。メインは「菅谷高殿」と「金屋子神社」の2か所で、古代出雲における製鉄文化を体感し、古代を偲ぶことが目的です。

 

 たたら里、奥出雲と雲南 
 ヤマタノオロチ伝説のせいか、「古代の製鉄は出雲で始まった」ともいわれますが、それに関して筆者は常々疑問を抱いていました。
 出雲の砂鉄(真砂)は良質なため、日本刀の材料となる玉鋼を作るのにもっとも適しているが、還元性が悪いので高温を得られることが絶対条件。その高温が得られるのは、鞴(ふいご)が導入されてからのこと。それまでは傾斜地で吹き上げる自然の風を利用する「野だたら」に頼らざるを得なかったはず。これでは玉鋼の出雲は成立しません。

 その「野だたら」ですが、出雲ではいつ頃から始まったのでしょうか。

 

f:id:SHIGEKISAITO:20190820150114j:plain <菅谷高殿>

 まず雲南市吉田の「田部家の菅谷高殿」を見学しました。
 そこは鉄師(たたら経営者)の田部家が、たたら操業のために営んだ集落です。1681年の開設で、現存する唯一の「たたら山内」として、高殿も含めて重要有形民俗文化財の指定を受けています。

 この高殿は、砂鉄から製鉄するための建物で、映画『もののけ姫』に出てくる「たたら場」の舞台にもなったことで有名になりました。
 映画『たたら侍』は、ここで相当に念を入れた撮影をし、最高の仕上がりだったようですが、俳優の不祥事でたったの3週間で上映中止に追い込まれてしまいました。筆者は見ていません。まことに残念。

 

f:id:SHIGEKISAITO:20190820150345j:plain <真っ赤に色づいたカツラの葉>

 高殿の前に立つご神木のカツラの巨木が、綿菓子のように強烈な甘い香りを一面に放っていました。
 カツラは、製鉄の神である金屋子神が降臨したというゆかりの木です。ハート型の葉は緑、黄、赤と3色に変化するようですが、この時期は巨木全体が赤の衣を纏っており、華やいだ雰囲気を醸しだしていました。


 交通不便の山奥のゆえか、ほかに見学者は一人もいません。村下(鍛冶の技師長)の系統を受け継ぐ管理人が1時間もかけて、「たたら」がどういうものか、その工程や設備についても丁寧に説明してくれました。以下はその概要です。
 
 山内は、製鉄に関わる施設と、住まいで構成されている。山内でもっとも重要なのが、たたら炉が設置された製鉄施設「高殿だ。高殿の前には、鉧(けら)などを冷却する鉄池(かないけ)があり、その鉧を砕く大銅場、それをさらに小割するする小銅場、砕いた鋼を選別する鋼造り(かねつくり)場がある。このほか、山内全体を統括する事務所機能としての元小屋がある。それに職人およびその家族が住む住まいを含めて山内を構成する。

f:id:SHIGEKISAITO:20190826090855j:plain <たたら炉が設置された高殿内部>

 山内は、たたら操業に欠かせない膨大な量の木炭や原材料の砂鉄、さらに生活用水の確保が可能であるとともに、生産された鉄・鋼の搬出、食糧の搬入が便利な場所が選ばれました。なかでも重視されたのが木炭の輸送距離が短いことです。

 製錬には、見かけで、砂鉄1に対し木炭は50ほど調達しなければならないといいます。木炭は木のわずか12~20%しか得られないので、鉄の歴史は森林伐採の歴史という言葉があるくらい、古代の製鉄は森林資源多消費型でした。森林が遠隔地にあっては、古代製鉄は成立しません。「砂鉄7里に炭3里」という言葉があり、これは「たたら」の立地条件を表していることばで、砂鉄はたたら炉から7里、木炭は3里以内で集めるべきといわれました。
 16、17世紀頃までは、木炭輸送の経費を抑えるために、「たたら」は頻繁に移動を繰り返しました。それ以降、経営拠点となる「たたら」は移動せず固定されるようになったといいます。拠点の固定化は、鉄師が木炭の広域流通や広大な鉱山林の確保に向けて政治力を発揮したことによります

 しかし、これらはすべて近世たたらに関する説明に過ぎません。

 

 そこで管理人にダイレクトに尋ねてみました。
 「出雲のたたらは弥生時代からあったのか?」。
 「そんな古くからあったという証拠はまったくない」と素っ気ない答え。

 事実は、菅谷山内でたたら製鉄が始まったのは鎌倉時代で、しかも移動式の野だたら。江戸時代になり、1751年から高殿を構えた製鉄法(永代たたら)になったとのこと。


 「野だたら」の行われた場所がイメージできるからと、管理人が高殿脇の渓沿いを案内してくれました。写真にあるように、いかにも、という場所です。

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 <強い自然風が吹き上げる渓沿いの斜面>

 

 奥出雲には「野だたら」の跡がたくさん発見されていますが、どんなに早くても6、7世紀頃以降のものらしく、どう算段してみても出雲地方が、スサノオやオオクニヌシが活躍する神話時代ないしは弥生時代や古墳時代前期に「製鉄で」栄えた事実は見いだせませんでした。
 結局のところ、私たち現代人が実見できる「たたら」は古代のものではなく、ましてや6、7世紀頃の「野だたら」のありようは、奥出雲を旅してみても、まったくもって不明だったということです。  

f:id:SHIGEKISAITO:20190824184950j:plain <奥出雲に点在する野だたらの跡>

 

 ……ということで、(近世たたらではなく)古代たたらについては、角田徳幸氏と窪田蔵郎氏の文言を噛みしめるしかありません。

 <たたらは、製鉄炉を覆う建物(高殿)をもつ高殿鈩と、それをもたない「野だたら」に分けられることがある。いわゆる「野だたら」が、文字通り露天で製鉄をしたのかどうかは検討する必要があるが、高殿の出現は天候に左右されない操業を可能にしたという点で大きな意味があった(角田)>。

 

 <古墳時代ごろの製鉄は山腹の傾斜地を利用し、自然の強い風力に依存して、砂鉄を盛りあげた上に薪木を積みあげて幾日も火を燃やしつづけ、わずかな鉄塊を得ていたのである。その後、吹子を使う高温溶融の技術が導入され、年を追って本格的な操業をするようになった(窪田)>。

 

 その後、菅谷高殿から移動。
 膨大な富で一時代を築いた鉄山経営者ゆかりの、雲南の田部家土蔵群、仁多の可部屋集成館と桜井家庭園を見学しました。豪壮な住宅と見事な庭園、収集された美術品や資料に往時の盛況がしのばれます。彼ら鉄山経営者は、年々巨大な資本力を蓄積し、藩と結んで自己に有利な鉄山格式を出させ、広大な山林を占有し、ついには大坂などにおける問屋経営に乗り出すまでにいたったといいます。鉄山経営の知恵とそれを実現させた政治力には脱帽です。 

 f:id:SHIGEKISAITO:20190820151012j:plain <田部家土蔵群(雲南市吉田)> 

 

 宮本常一氏の『山に生きる人びと』には、「中国山中の鉄山労働者」「鉄山師」の項に、田部家や桜井家に関する興味深い描写が載っています。

 島根県飯石郡の鉄山経営者である田部家は、紀伊田辺の田辺氏の一族でした。家臣として仕えた主筋が没落し飯石郡吉田に帰農して、1460年代に鉄山経営を始めたといいます。田部家は当時、日本一の山林王と言われたようです。
 仁多米で有名な仁多郡の桜井家も、1619年、主君福島正則が失脚してから中国山中に移り、砂鉄の採掘にあたるようになり、落人ながら鉄山経営に成功したといいます。

  以下、同書から抜粋……

 <多くの労力と特別の技術を必要とする鉄山経営はただ農業のみにたよって日々を送っているような者にはむずかしく、あらくれた男たちをおさえてこれを十分に働かしめるような力量のある者でなければ大成しない。落人武士というような者には十分その資格があったものと思われる。そしてその初めは砂鉄をとり、たたらで銑鉄をつくり、また鍛冶屋で鋼をつくる作業をくりかえしていただけであっただろうが、そうしたなかで徐々に財産が蓄積せられていく。>


 <たたらのあとはこの地方の山中いたるところにあり、しかもその一つ一つのたたらがいつごろおこなわれていたかを知る者はない。何年かたたらを吹いて、付近に砂鉄がすくなくなるか、山の木がなくなると移動していったもので、木の大きくなるまではまたもとの静寂な自然にかえる。そして木の成長した何十年か後に、また人がやってきてたたらをつくる。そのとき前のたたらと後のたたらとの間には人間的に何のつながりもない。つまり、その前どんな人がいてたたらを吹いていたかを知る者は誰もいないのである。>

 

 <一つの部落の歴史が血のつながりによってつづいていくのではなく、断絶をくりかえしつつつづいていくところにたたらの村の特色がある。>

 

 <初めは木の茂った山をもとめて移動経営していた仲間が多かったが、経営が大きくなるとたたらや鍛冶屋の規模も拡大し、移動が困難になってくる、そして精錬所を中心にしてその付近にできるだけ広い山林を持つ必要にせまられてくる。>

 

 まさに、田部家、桜井家は、藩主との政治的な結びつき強めて広い山林を確保し、その地位を万全なものにしていったのでしょう。

 

 奥出雲をドライブしていると、あちこちで棚田をはじめ田んぼが一面に展開する景色に遭遇します。有名ブランド、仁多米の里です。この仁多米とたたらに深い繋がりがあるとは、この旅行まで知りませんでした。以下、その繋がりに言及します。


 「近世たたら」の原料となる砂鉄は、「鉄穴流し(かんなながし)」という選鉱法で採取しました。 これは、水流の破砕力を利用して花崗岩の砂を土砂と砂鉄に分離させ、石垣で囲った水流の受け皿の中で重い鉄を沈殿させて砂鉄のみを取り出す方法です。

 この鉄穴流しは、山を切り崩すことはもとより、大量の土砂を河川に流すことから、流域の環境に大きな影響を与えました。川底が上がり洪水を起こしやすい天井川となることや、流域の農業用水路が埋まることなどは負の側面です。


 その一方で、先人達は石垣囲いの跡地を田として作り替える「流し込み田」をつくり、また川を流れ下った砂の堆積地を利用して新田開発を行うなど、跡地や土砂を有効に利用してきました。


 この鉄穴流しによって山が切り崩され、奥出雲の大地は大規模な地形改変がなされましたが、現在、私たちを魅了する美しい棚田景観の多くは、まさに鉄穴流し跡地に拓かれたものなのです。 たたらと仁多米はつながっている……。
 この仁多米は美味しいとの評判が高まり全国区レベルでブランド化しました。花崗岩が風化したミネラルたっぷりの土壌や、寒暖差などの生育条件に恵まれて、うまみが感じられるのだそうです。

 

金屋子神 
 「金屋子神」は、たたらの関係者や鍛冶屋などの火を扱う金属関係者が信仰する神で、この神が中国山地に降臨してたたら製鉄が始まったと伝わっています。

 その降臨地が奥出雲に近い安来の山奥、西比田に鎮座する「金屋子神社」です。そこは、松本清張の「砂の器」の伝承地、亀嵩と隣り合っています。
 金屋子神社は中国地方を中心に、日本各地に広く分布していますが、安来の金屋子神社が総本社とされています。
 民家も途切れた谷奥、高い杉の森に囲まれた、重々しい雰囲気の境内奥に金屋子の神は鎮座していました。カツラの古木も点在しています。

f:id:SHIGEKISAITO:20190820151335j:plain  <金屋子神社(安来市広瀬町西比田)>

f:id:SHIGEKISAITO:20191126135140j:plain  金屋子神社境内のカツラ >

 

  金屋子神社の創始は不明ですが、戦国武将尼子経久が幣田を寄進した記録が残っているといいます。しかし、中国山地一帯に信仰圏を確立するのは、たたらに技術的改良が試みられるとともに、山内が形成され、生産量が増大する江戸時代になってからと考えられます。
 金屋子神は、山内でたたら製鉄に関わる人びとだけでなく、炭焼きや砂鉄採集、村里の鍛冶や鋳物工房、さらには鉄や関連物資の輸送・販売に携わる業者にも祀られてきました。このように、金屋子信仰が広範な地域や様々な職種におよぶのは、神社が布教につとめた結果だけでなく、たたらという産業が、地域の人びとの生活に大きな影響を与えるものであったことを示しています。

 金屋子神の来歴は、「鉄山秘書・金屋子祭文」によれば、金屋子神、金山彦神、天目一箇神(あめのまひとつ)の三神同一神であり、また「金屋子縁起抄」によれば、金山彦命、金山媛命を両親とする子神で、この三柱を合して金屋子大明神としています。その他の説もあって、神格や系譜については判然としませんが、通常は女神と信じられてきたようです。

 

 その本社の隣接地に金屋子神話民俗館がありました。

 そこに掲示されていた伝承には、大略、
 <金屋子神が高天原から播磨の宍粟に天降り、途中、吉備の中山に立ち寄ってから、シラサギに乗って出雲の安来のカツラの木に舞い降りた。そこが金屋子神社の現在地。金屋子神は自ら鍛冶の技師長(村下)となって各地で鍛冶の指導を行った>
とあります。

 このように、奥出雲で現代まで伝わる伝承からは、少なくとも吉備や播磨よりも前に、出雲で製鉄が行なわれていたことはないだろうとの、当初からの思いに確信を持ちました

 

 
プラスαは秘湯めぐりとグルメ
 ドライブで移動する先々で温泉三昧。
 奥出雲の西側、飯南町頓原にある秘湯「ラムネ銀泉」は、鉱泉に大量の炭酸ガスを含む日本有数の強炭酸泉です。1時間ごとの貸し切り風呂で、肌につく気泡の数が半端でない。ぬるめの湯は色もきれいで飽きがこない。ラムネというネーミングに納得。

 ほかにも三瓶山温泉、亀嵩温泉など、奥深い秘湯で疲れを癒し、変化ある旅を堪能。言うことなし。                 

f:id:SHIGEKISAITO:20190820152202j:plain <頓原のラムネ銀泉>


 

 出雲方面へのアプローチは、空路や、「智頭急行いなば」の利用をやめて、今回は福山からの「尾道・松江自動車道ルート」を選択しました。まだ降り立ったことのない福山と竹原の観光を織り込むためです。

 「安芸の小京都・竹原」は素晴らしい。江戸後期の雰囲気を残しノスタルジーを感じます。竹原格子の似合う町並み保存地区などを散策しました。竹鶴政孝の生家「竹鶴酒造」があることで有名ですが、もともとは製塩業(入浜塩田)で発展した町です。
 小高い丘の上にある西方寺境内から、竹原の町並みが一望でき、左方には瀬戸内海がきらきら光り実に爽快。江戸時代をはるか遡れば、このあたりも海か湿地だったのだろうとの想像が脳裏をかすめました。  

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<西方寺境内から竹原市内の眺め>


 

 福山の夜は、瀬戸内の魚をつまみに「賀茂金秀」の酒杯を傾ける。三瓶山でも奥出雲でも土地の名物を存分に味わい、温泉プラス食を堪能する「ゆったり旅」となりました。  

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  <福山「せとうち料理・春秋」にて>

 

 以上、昨秋の旅では、「菅谷高殿」「鉄の歴史博物館」で、実物や模型・解説図面を前に「たたら」の技術的な側面を学び、また「6、7世紀頃の野だたら」についても多少とも窺い知ることができ、懸案だった奥出雲の旅を有意義なものにすることができました。快哉。

 

 

 


参考文献
『山に生きる人びと』宮本常一
『たたら製鉄の歴史』角田徳幸
「菅谷たたら高殿」パンフレット
「和鋼博物館」資料
「日立金属 たたらの話」