<菅谷山内高殿(雲南市吉田)>
製鉄の開始は6世紀
第28回のブログで言及したように、日本神話には、スサノオによるヤマタノオロチ退治の物語があり、これを出雲の砂鉄争奪とからめる解釈があります。したがって、弥生時代の昔から、出雲で製鉄が盛んだったように思われるのですが、文献的には裏づけとなるものが何一つとしてありません。
むしろ出雲の真砂(まさ)砂鉄は還元性が悪く融点も高いので、製鉄技術の初期段階である「野だたら」では製錬がうまくいかなかったと言われています。
<菅谷山内高殿(雲南市吉田)>
製鉄の開始は6世紀
第28回のブログで言及したように、日本神話には、スサノオによるヤマタノオロチ退治の物語があり、これを出雲の砂鉄争奪とからめる解釈があります。したがって、弥生時代の昔から、出雲で製鉄が盛んだったように思われるのですが、文献的には裏づけとなるものが何一つとしてありません。
むしろ出雲の真砂(まさ)砂鉄は還元性が悪く融点も高いので、製鉄技術の初期段階である「野だたら」では製錬がうまくいかなかったと言われています。
<五斗長垣内遺跡(淡路島)>
鉄器の舶来
日本の鉄利用は、製品の輸入から始まりました。
日本最古の鉄器は、紀元前5世紀頃にシナで作られた鋳造製の斧で、愛媛県の大久保遺跡で出土しています。しかし鉄器の普及というにはほど遠く、鋳鉄の破片を対象に、火を使わず従来からの石器製作技術を駆使して小鉄器を作る試みなどがされたようです。
紀元前3世紀になると、炭素量が約2%以下の鋼で作られた鍛造鉄器が増え始めます。吉野ヶ里遺跡では甕棺の中から鎌状鉄器が出土しています。
鉄の利用は徐々に進むものの、紀元前後までは、実質的には石器の利用が中心だったと考えられます。
<与那国島の夕焼け>
本年7月9日、国立科学博物館の海部陽介氏をリーダーとする「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」が成功裏に終了しました。
3万年以上前に、私たちの祖先(ホモサピエンス)が海越えの3つのルートで日本列島にやってきたことは確実視されています。痕跡が残されているからです。
そのうちのひとつ、南西諸島方面から日本列島に到るルートは最難関でした。台湾から与那国島の距離は200キロと長く、しかもそのあいだを黒潮が流れているからです。黒潮の流れは時速4キロで、なんと幅100キロもあります。これに対し、人が漕ぐ当時の舟はせいぜい時速4キロしか出せなかったと想定されています。
当時の移動手段である舟は発見されておらず、彼らがどうやって渡海できたのか、実態が謎に包まれていました。
前回のブログでは、古代史を俯瞰する場合に「人・モノ・情報の(流れに関する)ネットワーク」という視点が重要であることを確認しました。
ネットワークが形成されるためには、自然障壁を突破する交通インフラの整備・充実が必須で、それを下支えする技術の進歩が絶対的な必要条件です。