理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

49 黒曜石は語る

f:id:SHIGEKISAITO:20200324213559j:plain <黒曜石の黒い層(神津島)>

 今回と次回は、第25・26回のブログで予告した通り、黒曜石とヒスイに言及します。
 当ブログでは、古墳時代前期までの海・陸の交通インフラが極めて貧弱だったことを確認してきました。一方、紀元前のはるか昔に、黒曜石・ヒスイ・天然アスファルト・琥珀などの「特定物質」が、想像を超えるような遠隔地まで運ばれていたという考古学的な事実があります。
 黒曜石やヒスイなどの原産地と出土地を調べることで、先史時代における遠距離交易の実態が分かってきたのです。
 まずは黒曜石が物語ること、これを紐解いてみます。

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48 馬の利用

f:id:SHIGEKISAITO:20200113171655j:plain <勧修寺の菖蒲>

 急遽思いつきました。陸上交通といえば馬を欠かすわけにはいきませんね。今回は馬について言及します(第44回ブログで予告)。

 『日本書紀』には、スサノオ(神代だけど、あえて言えば弥生時代かな?)が、いろいろな乱暴狼藉をする場面で、まだら毛の馬を放して田の中を荒らし、まだら毛の馬の皮を剥いで斎服殿(いみはたどの)の屋根に穴をあけて投げ入れた、とあります。

 一方、『魏志倭人伝』には、3世紀頃の日本(九州のことか?)に馬はいなかったと書いてあります。
 <其の地に牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)無し>。
 さて、その真偽のほどは?

 実際のところ、縄文・弥生時代の日本には馬はいなかったのです。そればかりでなく5、6世紀頃までの古代日本では、交通に占める馬のウエイトは高くありませんでした。

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47 塩の道

 f:id:SHIGEKISAITO:20200113110458j:plain <三室戸寺のしゃくなげ>

 第44回ブログで予告した「塩の道」について言及します。
 弥生時代、いや縄文時代の昔から、海を持たない地域には、どんな山奥であっても「塩の道」が通っていた可能性があります。その多くは今や役目を終えて消失し確認すら困難な状況です。
 痕跡を残している塩の道としては、信州を南北に走る「千国街道」が有名です。
 「千国街道」には塩だけでなく、山側と海側でさまざまなものが行き交っていたことが分かっています。物々交換の道でもあったわけです。
 もちろんその姿は今とは異なり、当時は刈り込まれた平地がほとんどなく、集落間を結ぶ道路は、草木生い茂る原野や、山間ないしは尾根筋を踏み固めただけの「けものみち」のようなものでした。
 ひと一人がやっと通行できるくらいの細々とした貧弱な道でしたが、古代人にとっては欠くべからざる「生活の道」であり「交易の道」だったといえるでしょう。

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46 古代人の移動速度(歩行)

 f:id:SHIGEKISAITO:20200113110100j:plain <勧修寺庭園のすいれん>

 人はいったいどれくらいの速度で移動できるのでしょうか。
 ここで論じるのは、弥生時代後期から4世紀頃まで、いわゆる「道」がほとんど整備されていなかった時代の移動速度についてです。
 当時、馬はありませんでした。したがって移動速度とは人の歩行速度を意味します。
 特に集団の移動速度については、古代史を論じる場合、きわめて重要な与件となります。

 本論に入る前に、いろいろな歩行速度をレビューしてみましょう。

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45 重要な交通路だった「河川と湖」

f:id:SHIGEKISAITO:20200111191417j:plain

 自然障壁が邪魔をする古代日本では、陸路だけで遠方の目的地や山深い奥地に到達するのは困難なことでした。
 陸路の代わりに遠隔地を結んだのは地乗りによる沿岸航海であり、そして内陸部へは河口から遡る河川舟運があり、さらにその奥地にも舟越道などが存在し、細い交易路が遠近各地を網目のように繋いでいました。今回はその実態を確認してみます(このうち、航海については稿をあらため言及予定)。

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