理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

66 3世紀頃までの九州北部・山陰の交易(3)

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 前回の続きとして、四隅突出型墳丘墓と青谷上寺地遺跡について補足します。

四隅突出型墳丘墓
 ヒトデのような格好の四隅突出型墳丘墓ですが、これら出雲の墳丘墓と吉備の楯築墳丘墓は、ほぼ同時期に存在したと推測されています。
 そして、西谷3号墳丘墓の埋葬施設が楯築墳丘墓と同じような構造の木槨墓であり、埋葬儀礼に用いた土器の中に吉備の特殊器台・特殊壺や山陰東部や北陸南部からの器台・高杯などが大量に混じっているのです。
 西谷3号墓から吉備で作られた特殊器台が発見されているということは、出雲と吉備とのあいだの深いつながりを暗示しています。

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65 3世紀頃までの九州北部・山陰の東西交易(2)

f:id:SHIGEKISAITO:20200908093738j:plain  <宍道湖北岸の蕎麦畑>

 前回の続きですが、古代の出雲と因幡について補足します。

出雲政権はあったのか?
 古代史を検討する際に避けて通れないのは、「出雲の隆盛と国譲り」に関する論考です。
 まずは、「3~4世紀の大和政権誕生に先立って、西日本全域を支配した出雲政権があった」という説は、明確に否定しましょう。これは『記・紀』の記述がもとになってつくり出されたトンデモ古代史です。

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64 3世紀頃までの九州北部・山陰の東西交易(1)

 f:id:SHIGEKISAITO:20200908092820j:plain <大社湾越しに三瓶山遠景>

 第38・40回ブログで、日本海側における「広範囲にわたる潟湖の存在は、朝鮮半島との南北交易を地域間の東西交易に転換でき、古代の日本海文明において重要な結節点の役割を担ってきた」と記しました。
 今回は、紀元前1世紀頃から3世紀頃までの日本海側の東西交易と、九州北部や山陰に存在したクニの興亡について、出雲に焦点を当てながら掘り下げてみます。
 「神話かぶせ」が過ぎる古代史では、「天孫族が日本を統治する前に出雲政権があった」というのですが、筆者が描く古代史はそれとは一線を画しています。

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63 玄界灘沿岸のクニグニ・半島との交易(2)

 f:id:SHIGEKISAITO:20200907155538j:plain <平原1号墓(福岡県糸島市)>

 前回の続きです。

2世紀頃の九州北部
 玄界灘沿岸のクニグニは、朝鮮半島との交易によって栄え、2世紀に向けて伊都国を中心にまとまっていきます。
 その中心的な集落は、まず紀元前後の三雲南小路遺跡で、続いて1世紀頃の井原鑓溝遺跡です。

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62 玄界灘沿岸のクニグニ・半島との交易(1)

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<着陸寸前の機内から海食崖の続く対馬を望む>

 紀元前の古代シナや朝鮮半島の人びとが、九州北部を「倭国」や「倭人のクニ」と認識していたかどうかに関係なく、九州北部にムラが生まれ、やがてクニに成長し、それらのクニグニが朝鮮半島と交易をしていたことは考古学的事実です。

 

玄界灘沿岸のクニの誕生・半島との交易
 もともと、日本列島と朝鮮半島の間では、水田稲作の伝来(第60回ブログ)よりもはるか昔、縄文時代まで遡り、おそらく7000年ほど前から交流があったことが確認されています。朝鮮半島との南北交易の中心は半島に近い九州北部であったことは間違いありません。
 半島南部からは縄文土器が、対馬・壱岐や九州北部からは半島南部の櫛目文土器が見つかっているのが、その証拠です。渡海ルートは間違いなく『魏志倭人伝』に記載のある「対馬壱岐ルート」でしょう。

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