理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

101 複数の王が並立したヤマト王権

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 令和4年が明けました。
 昨年後半は、4世紀の古代史の中から、主として「ヤマト王権の勢力伸張プロセス」について確認してきました。本年末には雄略の時代まで進みたいものです。

 さて、年初の試みとして今回は、もやもやとしている王権継承の実態について整理してみます。

 第90回から98回で言及した「3~4世紀のヤマト国・ヤマト王権」は、一系でつながった王が統治する政権だったのか、それとも第83回ブログで言及したように王権には複列の流れがあったのか、或いは王権そのものが複数のまったく異なる勢力から成立していたのか、という懸念点について掘り下げてみます。
 主として、坂靖氏、清家章氏、武光誠氏の論考をベースにまとめてみました。

 

大和盆地における主要遺跡の盛衰
 まずは、今までの論考で確認した大和盆地関連の主要遺跡の盛衰について振り返ってみます。

 
 「おおやまと」地域では、紀元前から3世紀初めまで繁栄した唐古鍵遺跡(環濠集落)の衰亡と入れ替わるように、3世紀前半に興った纒向遺跡が3世紀後半から隆盛し、4世紀半ばには衰退する。纏向遺跡はヤマト国(ヤマト王権)の発祥地と考えられる。

 「ふる」地域では、環濠を持つ平等坊岩室遺跡が3世紀半ばまでに衰退し、その後は、2世紀頃から存在していた布留遺跡が5世紀から6世紀にかけて盛期を迎える。4世紀頃から「おおやまと」地域(ヤマト国)と一体化し、その延長線上に5、6世紀からの物部氏(本貫地は河内の久宝寺遺跡付近)の隆盛があったと想定できる。

 「わに」地域の集落は、2世紀頃の弥生集落を起源とする和爾遺跡群が4世紀頃から隆盛し、5世紀初めにかけて盛期を迎える。当地域は5、6世紀頃から和珥氏が主導したと考えられる。

 「さき」地域の集落は、弥生時代から続いていた佐紀遺跡が3世紀には衰亡し、4世紀前半から菅原東遺跡・西大寺東遺跡が隆盛し、纒向遺跡の盛期とラップする。4世紀後半には王の居館も存在するが4世紀末までには衰退する。また4世紀から興った第2次佐紀遺跡は5世紀半ばにかけて隆盛する。4世紀半ば頃には、当地域の王が「おおやまと」地域の王と併存した可能性がある。


 つまり、大きな遺跡(拠点集落)は大和盆地内で盛衰を繰り返していたわけです。

 

 いままで触れていませんが、「かづらき」地域でも、2世紀から鴨都波遺跡が、3世紀前半から秋津遺跡・中西遺跡が盛期となり、5世紀まで存続します。また5世紀には南郷遺跡群が隆盛します(「かづらき」地域についてはいずれ「古代史本論・5世紀まで」の中で詳述予定)。

 ついでに河内平野を眺めてみると、紀元後から4世紀前半にかけて、環濠を持たない加美久宝寺遺跡群・中田遺跡群が、纒向遺跡を上回る規模で隆盛します。久宝寺遺跡では6世紀頃の大型建物群跡が出土し、物部氏の居館跡と想定されています。丁未(ていび)の乱(587年)で物部宗家が滅んだのもこの地です。


 一方、王墓と思われる巨大古墳の築造時期は……。
 おおやまと古墳群では、箸墓古墳を除けば、4世紀前半(第90回ブログ)から4世紀半ば過ぎ。
 佐紀古墳群西群では4世紀半ばから4世紀後半(第95回ブログ)。
 佐紀古墳群東群では5世紀中心(第95回ブログ)。
 古市古墳群では4世紀末から5世紀中心。
 百舌鳥古墳群では5世紀後半中心。

 

 このように、大和盆地・河内平野で巨大古墳群の築造地域が移動することは、考古学的にも重視され、王朝交替論を支える大きな根拠にもなりました。ここに様々な謎解きが存在します。

 

王朝交代・交替論
 大東亜戦争後、一世を風靡した騎馬民族征服説(第37回・48回ブログ)が契機となって、ヤマト王権が単一の王権ではなく王権交替が繰り替えされたという様々な学説や、それに対する反論が盛んに提示されました。

 有名な崇神・応神・継体の三王朝交替説

 王朝交替説のひとつに「近江王朝説」がある。三輪王朝と河内王朝に挟まれた景行、成務、仲哀の3代にわたって近江の高穴穂宮に本拠とした王朝があったとする学説で、諡号に「イリ」を持つ三輪王朝、「タラシ」を持つ近江王朝、「ワケ」を持つ河内王朝の3王朝から成る。

 百舌鳥古墳群は大和盆地東南部勢力が侵入して成立、古市古墳群は在地勢力を核として成立したとする説。

〇 「おおやまと」地域の王権以外の豪族による王権簒奪があったとする政権交代説。

 九州の王権が河内平野に襲来して新たな王権を樹立したとする説。

 ヤマト王権内の勢力が権力抗争により分裂したとする説。

 5世紀以前の「倭の五王」段階には王位を継承する集団が複数存在したとする説。

 ヤマト王権は連合政権であり、連合政権を構成する有力勢力の間で盟主権が移動しているだけなので、政体としては一貫していて王朝交替とは言えない。

 3世紀後半から4世紀前半は大和盆地東南部に集中する大王墓群の築造地域が、4世紀後半には大和盆地北部(「さき」地域西群)に移動し、5世紀には河内と和泉に移動するのは、大王の本拠地の移動を意味するので、王族集団が交替したと想定する説。

 大王墓は王の政治的拠点を示すものではなく宮」こそが政治的拠点を示すので、巨大古墳群ではなく宮(大規模集落と王の居館の存在)の興亡に注目すべき。

〇 王墓群の移動とともに、鏡や甲冑などの威信財の副葬が変化するので、それまでの王墓群と異なる新勢力が存在したと考えるべき、という論理に対して、威信財の変化は単なる時期差を示しているに過ぎないとする説。

 地政学的移動があったに過ぎないとする説。すなわち、「さき」地域は淀川・近江地域との交流優位、百舌鳥古墳群と古市古墳群を擁する河内地域は瀬戸内海東部地域との交流優位から大王墓群が移動しただけで、百舌鳥古墳群と古市古墳群の時代も、政権の居所は大和盆地東南部にあった。

 祭祀の形態が継続しているのでヤマト王権として継続しているとする説。

 

 以上のように王墓群の移動が単なる墓域の移動なのか、政治的変動を伴なうものなのか判断に苦しむわけですが、清家章氏は古墳群の埋葬原理から説得力ある論理を展開しているので、後述します。


王墓の移動について
 近年、考古学の進歩は目覚ましく、特に埴輪編年の研究が進み、巨大古墳の築造時期がかなり詳しく分かるようになってきました。すなわち、新たな王墓群は従来からの王墓群と入れ替わる様に出現するのではなく、両者は一定期間併存していることが明確になってきたわけです。

 第95回ブログで言及したようにさき」地域における4世紀半ばからの巨大古墳群と菅原東遺跡・西大寺東遺跡の存在をどのようにとらえるべきか、考えてみます。

 まずは、巨大古墳の築造時期と場所について客観的に事実を把握してみます。清家章氏の著作にあった下図が分かり易いので転載します。

 

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<清家章氏の著作から転載> 
 

 従来は、おおやまと古墳群の築造が停止した後、新しく佐紀古墳群が出現すると考えられていました。
 しかし、上図からは、おおやまと古墳群の最後の頃と、佐紀古墳群の初代古墳の時期が重なっています。そして佐紀古墳群の最後の時期と百舌鳥古墳群の初代の時期、百舌鳥古墳群と古市古墳群の時期も重なっています。

 

 佐紀古墳群が出現した後も、おおやまと古墳群の大王墓は築造が続いていたわけです。そして佐紀古墳群が最盛期を迎えている最中に、和泉・河内で巨大古墳の築造が始まっているわけです。
 まさに新旧古墳群が併存しているわけですね。


複列だった(かもしれない)ヤマト王権
 清家章氏は、古墳時代の埋葬原理に着目して独自の論考をまとめています。
 同氏によれば、首長層の埋葬原理として、兄弟が独立して新たな墳墓を営むことがあり、兄弟間で首長位が継承されることもあり、兄弟のそれぞれの子が首長位継承候補者ともなり得るといいます。

 5世紀になれば首長層が父系化するが、父子の間で安定して首長位が継承されるとは限らず、兄弟間の格差が小さいので、兄弟間で首長位が継承されることもあり得たといいます。

 ついでながら、平安前期に成立した海部氏の本系図(第69回ブログ)は、歴代の祝部の名前が縦に並び、名前の前に「児」の文字が記されています。
 義江明子氏によれば、この縦系図は単に祝部の地位を引き継いだ歴代の人物名表であって、父子の関係にある者もいればそうでない者もいると言います。

 第69回ブログでは、「縦に継いだ料紙の中央に薄墨一線を縦に引き、線上に適宜間隔を置いて始祖以下直系の子孫のみ掲げ」と記したのですが、ちょっと考えを改めなければと思いました。

 稲荷山古墳出土の鉄剣銘文にしても、親から子、子から孫へという直系原理が八代も続くとは考えられず、実力者が首長位を継承することはあり得るといいます。

 また、佐紀古墳群は墳墓の要素として三角縁神獣鏡が出土しないなどの独自性もあるが、大和盆地東南部の「おおやまと」地域の勢力から引き継いだ要素もかなり認められるので、「おおやまと」地域の勢力とまったく関係ない新勢力の出現とは考えられないとしています。

 おおやまと古墳群の大王墓と佐紀古墳群の巨大古墳は一時期ではあるが、同時に築造されていて、二つの勢力が併存したことは間違いないと考えられます。
 この巨大古墳の併存は、佐紀古墳群と古市・百舌鳥古墳群の間でも見られます。

 これら二つの事象を敷衍すれば、兄弟から兄弟へと王位が継承されるだけでなく、兄弟が分派して新たな古墳群を創出した可能性が考えられるわけです。
 王族の分派活動であれば、おおやまと地域に大王墓が築造されている時期に、佐紀古墳群の形成が新たに始まり、しかも、おおやまと古墳群の王墓の要素が多分に引き継がれていることも理解可能です。

 旧勢力からの墳墓要素を多分に引き継いでいることは当然であるし、新たに加わる墳墓要素を分派の証と考えれば合理的に全体を説明できます。
 さらに、佐紀古墳群の場所に、その前身となる勢力が存在しないことも、清家説でうまく説明できます。

 清家氏の結論を筆者流に記せばおおむね以下のようになるでしょうか。

 「おおやまと」地域にヤマト国主流派の王族が存在し、3ないし4集団の中で実力者が順次擁立されたとみられ、彼らの王墓が箸墓、西殿塚、行燈山、渋谷向山というように、点在する形で分布します。

 行燈山から渋谷向山古墳の頃には、その中の王族一部が分派して「さき」地域に移動して佐紀古墳群を形成します。

 佐紀古墳群とおおやまと古墳群は一時期併存しますが、分派した勢力は4世紀後半(宝来山古墳から五社神古墳の頃)になると主流派だった本家を上回って隆盛し、ヤマト国を率いる王となる一方、大和盆地東南部にあった本家の方は衰退してしまったと考えられます。

 筆者は、以上のような清家氏の論考に共鳴するものがあります。

 古市古墳群・百舌鳥古墳群については、この後に続く「5世紀のヤマト王権」の中で詳述する予定ですが、可能性としては4~5世紀には一時期に複数の王が並立したのかもしれません。しかしそれが王権の断絶を意味するとも断定できず、たとえ生物学的に繋がっていなくても、広義のヤマト王権として何とか繋がっていたと考える方が理屈に合うように思われます。何となれば、祭祀の形態がおおむね継続しているからです。

 一系を確実に主張できるのは6世紀の継体以降でしょう。

 

 

 

参考文献
『古墳解読』武光誠
『ヤマト王権の古代学』坂靖
『埋葬からみた古墳時代』清家章
『佐紀盾列古墳群の謎をさぐる』塚口義信

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

100 ヤマト国の伸張(8)その後のヤマト王権

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 先走りしますが、4世紀後半から5世紀にかけてのヤマト王権の態様について簡単に述べておきます。
 ヤマト王権の権力基盤は5世紀に大きく強化されます。技術革新がそれをもたらしたと言えましょう。
 ともすれば古墳時代というと「古墳づくり」にばかり目が向いてしまうのですが、それでは古代史として片手落ちです。むしろ5世紀以降は、技術革新により、多様で旺盛な経済活動、社会活動が行われた側面を評価していくべきです。


河内への進出と交通ルート
 4世紀末にヤマト王権は、朝鮮半島との外交・通交に便利な河内に進出しました。

 応神は難波に行幸して大隅宮(おおすみのみや)を設け、一説ではそこで崩御
し、仁徳は5世紀初めに難波高津宮を本拠としたと言われています。

 3、4世紀における大和盆地の最重要路は山の辺の道でしたが、王権の河内進出により、山の辺の道のうち北半分の春日~石上の間は衰退してしまいます。
 大和盆地と河内をつなぐ道は、春日から河内の間は竜田道が、纏向から河内の間は、穴虫峠を越す大坂道と竹内峠を越す当麻道が使われるようになります。
 このルートの長所は、大坂道・当麻道が合流した丹比道(竹内街道)と竜田道が、難波道と接続する河内一帯が王権を支える物部氏の本貫地だったことです。

 物部氏の拠点は石上神宮のある「ふる」地域と思われがちですが、本貫の地は河内の八尾に広がる久宝寺遺跡・中田遺跡・池島福万寺遺跡(第82回ブログ)のあたりで、弥生時代の遺跡・遺物が多数見つかっており、また物部氏の居館と思われる古墳時代の大規模集落跡も確認されています。
 つまり、大和川の上流域(石上)と下流域(河内)の双方を物部氏が押さえていたことになります。

 物部氏が竜田道・丹比道という陸運、大和川という水運の水陸双方のルートを握っていたため、5~6世紀にかけて、ヤマト王権は、親密な連携関係にあった物部氏の力に大きく支えられて勢力を拡大していきます。

 それに飽き足らず、ヤマト王権は、河内に出る手段として、物部氏の本拠を流れる大和川ルートに加え、北部の木津川を経由して淀川に至るルートと、南部の紀ノ川ルートの二方面から回り込むルートを構築します。
 皮肉にも、その紀ノ川ルートは、舞台裏で葛城氏の隆盛に寄与していたのですが(後述します)。
 5世紀末に王権に深く関与し続けた葛城氏が衰退すると、ヤマト王権は巨勢道を啓開して紀水門から大和に至る最短ルートも造りました。

 こうして河内進出後、約1世紀を経て、瀬戸内へ向かう2つの物流ルート、「大和~河内」、「大和~紀」を完全掌握するのです。

 河内平野への進出によって、ヤマト王権は産業基盤を強化し、瀬戸内海東部を含む広範囲への影響力を確保することになります。
 しかし、この河内への進出は、決して大和盆地からの決別を意味しないことに留意すべきです。ヤマト王権は大和盆地内の本拠を放棄したわけではないようです。三輪山祭祀は4世紀半ば頃から本格化しています。

 なぜ河内地域へ進出したかについては、またまた先送りになりますが、次回のブログで「さき」地域の王権との関連を確認する中で掘り下げていきたいと思います。

 

3世紀~4世紀の大和地域のまとめ
 さて、もっとも大切なことを再確認して「ヤマト国の伸張」の論考を閉じることにします。

 他の地域国家と同レベルか、むしろ後発だった大和地域が、この時期に至ってスタートダッシュを切れたのは何故なのか、についてです。

 それは第86回ブログで言及したように、大和の地が交通至便な列島の中央に位置したことによります。
 河川を利用した流通ネットワークを駆使することで、鍛冶技術などを取り入れ、土木や農耕などの産業を進化させ、人口が流入し富の蓄積を図れたわけです。

 加えて天然の要害地であったことから、ヤマト国、葛城国のほか、平群・大伴・物部・和珥・巨勢など、後に有力豪族となる先祖筋が揃って当地を本拠としたことが大きかったと考えられます。彼ら豪族層の切磋琢磨によって、総合力で九州北部や吉備をしのぐ先進的な地域になったのです(第89回ブログ)。
 多くの人口を養える大和盆地の広さがそれらを可能にしました(第86回ブログ)。

 このような土台の上に纒向のクニ、その後にヤマト国が誕生した。そしてシンボリックな巨大集落をつくって威信を誇示したわけです(第85回ブログ)。
 営々と蓄積した財力と先進的な技術力が、水面下から顕在化したのが3世紀後半から4世紀でした。

 しかし3、4世紀の列島全体を見渡すと、今なおヤマト国が突出した時代ではなく、出雲・吉備・筑紫・丹後・近江など各地方に大きな政治勢力が併存しました。

 畿内および周辺を押さえ、出雲西部や九州北部に足がかりを確保したヤマト国が本格的に全国へ進出していくのは4世紀半ば過ぎから技術革新の世紀といわれる5世紀以降のことになります。

 通説とは異なりますが、製鉄をはじめとする技術が進歩し、海と陸の交通路、特に瀬戸内海交通路が整備されて、はじめてヤマト王権が広域に打って出られるようになるのです。これについては「古代史本論・5世紀まで」の中で言及する予定です。

 

 その内容をかいつまんで記せば、おそらく以下のような経過を辿るのではないでしょうか。

 3世紀半ば以降に定型化した前方後円墳が出現した後も、地方がそれ一色に染められたのではなく、東日本では前方後方墳が広まり、出雲では方墳が続き、丹後や吉備では大型の前方後円墳が築造されるなど、地域の個性が豊かに残ります。そうした実態から、むしろ4世紀の段階では、地域国家は独立を維持し、ヤマト王権による統合化は進んでいなかったと考えた方がよい。
 さらに、大和の古墳の規模は図抜けて大きいが、前方後円墳という墳丘の形は同じであり、同時期の古墳の中でナンバーワンではあるがオンリーワンの要素はない。
 このことは、大王(おおきみ)の地位が完全に独立・確立していなかったというヤマト王権の状況を何よりも物語っているのではないか。

 4、5世紀におけるヤマト王権の優位性は疑わないものの、ヤマト王権と地方首長との関係は多様であって、また日本列島内の地域社会の進化の筋道もいろいろあったと考えるべき。
 5世紀頃までにヤマト王権は畿内をおさえ、鉄や須恵器などの製造の集積を図り技術面で突出する。一方、地域国家をみると、それらの技術を筑紫・吉備・葛城などは朝鮮半島から直接入手したのに対し、山陰や北陸はヤマト王権に依存しつつも朝鮮半島からも直接入手し、近畿以東の近江・伊勢・尾張・関東などの勢力はヤマト王権に依存する度合いが大きかった。
 日本中が大和地域を向いて一色に染まっていたわけではない。

〇 5世紀半ばまでのヤマト王権は、鉄器生産・造船技術・古墳祭祀などでリードしたものの、それを独占できる立場になかったし、網の目のようにからみあった分業体制も存在した。大和地域も他の地域国家から多くの分業の成果物を得ていた。
 地域国家同士の間も同様で、言うなればヤマト国も含めた各地域国家は、複雑な多極的流通ネットワーク・分業ネットワークで結ばれていたといえる。

 3、4世紀の古代日本においては、地域ブロック内での戦闘はともかく、広域に大規模な戦争や権力の移動が起きたという痕跡は発見されていない。
 日本に統一国家的な動きが見られ始めるのは、鉄の国産化によって陸路・海路の開発が飛躍的に進む5世紀後半の雄略以降。
 また、瀬戸内海路の整備については、雄略が、あたかも関所のように構えていた吉備の勢力を押さえたことも大きな要因といえる。

 あたかも点在する島々のように、自然の障壁によって隔てられていた地域国家が、陸路・海路という太い線で結びつき、ついには面を接するようになる。交易や局地戦争を通じて相互の関係を深め、その中で突出したヤマト王権が統一国家に成長していった。
 理系の視点で眺めると、ヤマト王権の統治は、長い時間をかけてゆっくりと進んだとしか思えない。筆者は、3世紀から4世紀前半のヤマト国に格別の卓越はなく、中央集権の完成には数世紀もの長い年月を要したと考える。

〇 最近、「前方後円墳体制説」を主唱する考古学者たちの間でも、「3世紀末から、前方後円墳が大和から九州、東北まで広がったという旧来の説に対して、実際はきわめてモザイク状で、領域的にそのすべてが卑弥呼政権ないしはヤマト王権の領域になっていたとは毛頭考えられず、ヤマト王権は後の律令制の国府になるような重要な場所を狙って、点的に押さえたに過ぎない」として、ややトーンが後退してきている模様。

 

 第82回から第99回ブログまで記してきて、箸墓古墳の築造時期が3世紀半ばなのか、4世紀以降にずれこむのかと言う点が、最も大きな懸念点として残っています。
 筆者は関川尚功氏やその他の何人かの識者の論考をもとに、4世紀前半までの築造であることを前提に3~4世紀半ばまでの古代史を綴ってきました。
 その裏づけとしては、3世紀前半の大和盆地に先進的な集落をうかがわせる証拠が皆無であること、大和盆地に通じる交通インフラが未成熟であったこと、などを論拠としました。

 この時期のヤマト王権の版図については専門家による様々な論考があることは承知しています。
 それらの中から可能性が高いと考えられる論考をつなぎ合わせて、筆者が考える「理系的視点を重視した骨太の古代史」を綴ってきました。
 今後、これらの大前提が崩れる考古的大発見があれば、当然、筆者の論考は破綻をきたします。

 なお、今までは「纒向のクニ」「ヤマト国」「ヤマト王権」という言葉を結構いい加減に使用してきましたが、第22回ブログで定義した区分けを再掲して整理してみます。

ムラ(小規模集落)・・・数十人~数百人で部落のようなイメージ。
 大和盆地の東南部では、大和川支流の交通要衝地に、中小のムラが存在していたと考えられます。高市、葛城、十市、磯城、山辺、曾布、磐余のムラなどで、纒向にも6つのムラが散在していた時期に当たります。

纒向のクニ(小国)・・・1000人~数千人の規模。
 吉野ケ里(佐賀県)、原の辻(壱岐)、池上曽根(大阪府)、唐子・鍵(奈良県)などと同様に、「纒向のクニ」の時代に当たります。

国(地域国家)・・・古墳時代の代表的な政治勢力集合体で、王家で言えば、大和盆地東南部の「おおやまと」地域全域を勢力範囲に治め、物部や和珥と手を結び、実質的に大和盆地内の盟主になったフェーズ。
 列島各地には、西から順に、筑紫国、出雲国、伯耆国、因幡国、吉備国、丹後国、葛城国、ヤマト国、近江国、尾張国、若狭国、越前国、毛野国などが存在した。

ヤマト王権・・・ヤマト国が大和盆地から広域に版図を拡大していくフェーズ。

 今後、5世紀以降の大和の権力集団を語る場合には、大和盆地の外からさらに広域へと版図を拡大していく局面になるので、当ブログでは「ヤマト王権」という言葉に一本化して記すことにします。
 

参考文献
『古墳解読』武光誠
『古代豪族と大王の謎』水谷千秋
『古代豪族』洋泉社編集部
『地形と水脈で読み解く! 新しい日本史』竹村公太郎
『よみがえる古代の港』石村智
『古代日本の地域王国とヤマト王国』門脇禎二
『ヤマト王権の古代学』坂靖
『古代日本誕生の謎』武光誠
『古代日本 国家形成の考古学』菱田哲郎
他多数

 

 

 

 

 

99 ヤマト国の伸張(7)畿内から広域へ

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 前回のブログで述べたように、『記・紀』に記された景行の時代は、奇妙な物語が多いですね。
 景行自身の征西は妙だし、子のヤマトタケルによる全国制覇もロマンあふれる物語ですが、古代史としては虚構でしょう。
 しかし、この時代にヤマト王権が九州進出に向けて、さまざまな動き(支配ではない)を開始したことは史実と言えそうです。いろいろと傍証があります。

 ヤマト王権(「さき」の王権)による九州進出の狙いは、鉄や先進的な文物を受動的ではなく、自ら進んで確保することです。

 3世紀は、西日本全体が鉄の争奪戦をするような状況ではありませんでした(第24回ブログ)。
 しかし4世紀になると、産業振興や軍事面でのニーズが急速に高まり、鍛冶の技術革新も進んだため、ヤマト王権だけでなく各地域国家も鉄素材を調達するため半島との関わりを強めることになります。

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98 ヤマト国の伸張(6)4世紀の遠征物語は虚構!

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 4世紀は、『記・紀』の歴代天皇に当てはめると、崇神の後の垂仁、景行、仲哀、応神の時期に対応します。
 そこには大王家が華々しく遠征して、版図を拡大していく様が描かれていますが、伝承的で真実味に欠けるような内容が多いのが特徴です。

 崇神による四道将軍の派遣に続いて、垂仁時代は丹波まで(第96回ブログ)、景行の時代には九州中南部まで、またヤマトタケルの征西・東征、神功皇后・応神時代の朝鮮出兵から難波帰還まで、さらには多くの内紛なども含め、大王家が日本列島の大半を支配下に置いたかのような記事が満載です。

 これに対応するかのように、考古学の方でも、前方後円墳の広がりなどから、この時期にヤマト王権が東北南部から九州中部まで版図を拡大したとする研究者も多いようです。
 筆者は以上のような見方に大きな疑問を持っています。

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97 朝鮮半島の古代史と倭系遺物

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 ここまでヤマト国の伸長について言及してきましたが、当時、通交面でもっとも関係の深かった朝鮮半島の状況を確認しておく必要を感じたので、今回は紀元前から4世紀頃までの半島の古代史を概括します。

古代朝鮮半島の民族は、北部が騎馬民族系、南部が韓民族系!
 紀元前1000年頃までの朝鮮半島南部には、縄文人やシナ江南地域と同じ原アジア人の韓族が住んでいました。彼らはツングース系(騎馬民族系)の朝鮮族(濊族・わいぞく)とは異なる文化をもっていました(第37回ブログ)。

 紀元前300年過ぎには、騎馬民族系の朝鮮族が半島北部をまとめ、古朝鮮が出現します。箕氏朝鮮と呼ばれています。

 紀元前190年頃にはシナの息のかかった衛氏朝鮮に置き換わり、韓族は半島最南部に追いやられてしまいます。

 紀元前108年、前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして、楽浪郡など四郡をおき、半島の大半を直轄します。シナによる植民ですね。

 日本列島では、紀元前後に相次いでムラが成長してクニが出現します。前漢の終わり頃から、九州北部のクニグニは楽浪郡にしばしば使者を送ります。

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