<ブナ林>
今回は謎の多い馬見古墳群について概括します。第121回・124回ブログでも少々触れてはきましたが……。
馬見古墳群の立地
馬見古墳群は、4~5世紀の葛城氏が支配する「狭義の葛城地域」の北方にあり、そこは第124回ブログで確認したように、葛下郡(葛城市北部・香芝市・大和高田市西半部・王寺町・上牧町)と広瀬郡(広陵町・河合町)一帯に相当します。
下図で町名を●印で表示。
続きを読む<高鴨神社の正面鳥居 一言主神社の乳銀杏>
前回・前々回のブログで確認したように、葛城氏の権力基盤は、交通インフラを掌握してヤマト王権の対外交渉を担ったことにあるわけですが、今ひとつはヤマト王権の王の外戚となったことにあります。
今回は外戚としての葛城氏と、「かづらき」地域集団の神々について言及します。
大王家の外戚としての葛城氏
近代以前の天皇は、複数の后・妃を有しており、天皇家の一族だけでなく、氏族出身の女性も多く入内しています。
奈良時代以前に多くの女性を入内させた氏族としては葛城氏・蘇我氏・息長氏・和珥氏などが知られています。
続きを読む 大和盆地という内陸に拠点を置いた葛城氏にとって、瀬戸内海の自由往来が困難だった5世紀までは、日本海側に出ることや九州北部地域に到達することは重要な政治課題でした。
彼らは、地域勢力と連携して交通インフラ(水運・海運)をおさえることでこの障害を克服し、自らの勢力を拡大します。
第91回~95回のブログでは、「おおやまと」と「さき」の王権や、有力集団である「ふる」地域集団(物部氏の祖か)と「わに」地域集団(和珥氏の祖か)に言及しましたが、大和盆地南西部の勢力(「かづらき」地域集団)には触れずじまいでした。
今回は、南西部にゆかりの葛城氏・鴨氏、彼らの祖や、彼らにゆかりの遺跡群について確認してみます。
続きを読む前回の続きです。5世紀の大王の政治拠点と陵墓について確認してみます。
5世紀の大王の政治拠点
筆者は、応神・仁徳の頃までの『記・紀』の記述に疑義を呈してきましたが、仁徳の3人の息子と孫の記事にはある程度の信憑性があると考えられる(前回ブログ)ので、念のため、それぞれの政治拠点を確認してみます。