理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前後から6世紀頃までの古代史を再考する!

16 神社の起源と祭神

f:id:SHIGEKISAITO:20190620132832j:plain <若狭彦神社本殿と中門  手前は拝殿跡>

 前回は、アマテラスを祭る伊勢神宮の歴史が7世紀より前には遡らないことを確認しましたが、今回は一般の神社と古代史との関連を探るため、その起源や変遷について考えてみます。

 謎に包まれた神道・神社の起源
 神道の起源は、巨石や山川に対する素朴な信仰、アニミズムだとも言われます。しかしアニミズムは世界中の民族に普遍的に見られた信仰なので、神道的なものが付加されなければ、アニミズムそのものが神道の起源とはいえないでしょう。
 形が整った神道が見られるのは相当新しい時期なので、弥生時代から古墳時代にかけて発見されている神殿や建物の機能を、その後の神祇信仰と関連づけるのは好ましくありません。

  そもそも纒向遺跡の主祭殿、吉野ケ里や唐古鍵の主祭殿、そして登呂遺跡の祭殿は、今の神社からの類推で復元されているのですが、本当はどういう形のものだったのか、実は不明なのです。復元された姿はミスリードの最たるものかもしれず、そうだとすれば考古学の犯罪とも言えます。
 大神神社や宗像沖津宮の祭祀遺跡は4世紀後半のものとされていますが、これが後の神社にどのようにつながるのかも明確ではありません。
 したがって、神社の鎮座地や神社建築そのものから、古墳時代より前の古代史を読み解くのは不可能に近いのです

 

 一方で、延喜式内社の鎮座地のうち相当数が、古墳遺跡と近接しているため、何らかのつながりがありそうなこともまた事実です。5世紀以前の信仰の姿は実はよく分かっておらず、謎でいっぱいなんです。

 

 おそらく古墳時代の前半は八百万神の祭祀が続き、ヤマト王権の勢力が拡大する5~6世紀以降に神社の生まれる素地ができ、この頃に有名古社の大半が創始されたのでしょう。やがて、各地の八百万の神がヤマト王権の神々の体系の上に位置づけられていったのではないでしょうか。

 但し地域国家の古代豪族が勢力を維持していた時代には、まだ社殿はなく祭場だけ、あるいは神の住まう山や森といった神域だけで、神域内の一定の場所に祭場を設けて臨時に神籬を立てたり、磐境で祭ったりする素朴な信仰形態だったようです。

 神体山に向かって拝む大神神社や金鑚神社、そして諏訪大社には、現在でも本殿がありません。また宗像大社の高宮斎場では古代祭祀の面影が偲ばれます。
 社殿が整備されるようになったのは意外と新しいのです。

 

 8世紀の律令制の中で、神祇祭祀が整備され、全国の神社が大和政権の管轄下に置かれたことをもって、神社・祭祀システムの一応の完成とみるべきでしょう。もちろん、それはその後も幾多の変遷を経て現在につながっていくので、この時期の当初の神道を原始神道と呼ぶこともあります。


 

今の姿から古代に遡る難しさ
 
今の神社の姿を丹念に調べ、そこから古代や中世・近世の景色を描くと大きな罠にはまってしまいます。

 スポンサーとなる豪族の興隆や衰微、また国府などの国の中心の移動によって、神社は栄枯盛衰の波にさらされ、社殿は幾多の焼失・再建を繰り返し、多くの古文書は地震や戦火によって失われました。
 由緒書や伝承についても、長いあいだに何度も改変された可能性が高く、今に残るものから神社の創始の姿や古代史を解明することは本当に困難なことです。

 

 菱田哲郎氏によれば、世界では王家の始祖神や国家の守護神を祀る神殿は、国家の成立段階に必ずといってよいくらいに建設され、上部構造から国家成立を考える重要な材料になるが、日本列島の場合は、神社建築が不明瞭であることがネックとなり、神殿から国家を論じるというわけにはいかないと言います。
 古代史を語る場合、今の神社の姿、由緒書きや伝承などの現代に伝わる表面的事象だけに頼ってはならないわけですね。

 神社は常に政治と不可分の関係にあったので、今の神社建築や鎮座地だけからは、中世以前の姿を知ることすらなかなか難しいといえます。


社殿造営の始まり
 神社の社殿と言えば、若狭国の一宮とされる「若狭彦神社」「若狭姫神社」の参拝を思い起こします。
 隋神門をくぐり社殿の正面に立った時、異様な感覚に襲われました。通常見られる拝殿がなく、檜皮葺の大屋根を急勾配で高々と立ち上げた流造の本殿は参拝者から見て丸裸……。
 「彦社・姫社」ともに入母屋造平入の拝殿が昭和の自然災害で倒壊したため、瑞垣に開口した中門(拝所)から、あたかも直接、本殿を拝むような塩梅だったのです。

 

  実は、今のような形の拝殿・幣殿・本殿が一式揃った神社が昔から存在したわけではありません。
 社殿造営の歴史は以下のようであったと考えられます。

 5~6世紀以降の時期に、神籬・磐境に象徴される素朴な信仰形態を脱し、仮設の神殿(本殿のみ)が設けられるようになります。仮説の神殿は、祭礼のために臨時に設置され、終わると取り壊されてしまう簡易的な建物です。

 この時期に有名古社の原形が出来上がったようです。

 常設の神殿(本殿のみ)が整備されるようになったのは意外にも新しく、7世紀末頃のことです。

 

 『日本書紀』681年に、
 <畿内(うちつくに)及び諸国(くにぐに)に詔して、天社(あまつやしろ)・地社(くにつやしろ)の神の宮を修理(をさめつく)らしむ(造営のこと)>
という記事があります。

 これが常設の神殿が整備されるターニングポイントとなったのです。本格的な国家を確立する動きの中で、政治的な要請から今のような形の神社(常設本殿)が生まれたわけですね。これは丁度、不幸にも拝殿のない「彦社・姫社」の現在の姿に相当します。

 現在に続く有名古社以外の、各地の村々で祭られ圧倒的に数が多い小社・祠で神社の体裁が整うのは、ずっと遅れ中世以降のことになります。

 

 その後、明治になって国の指導(近代神道祭式)で、多くの神社の本殿の前には拝殿が置かれるようになりました。
 これについては三浦正幸氏による以下のような皮肉たっぷりのフレーズが印象に残ります。

 <結局、拝んでいるのは拝殿であって、神様が住まう本殿を直接に拝んでいるわけではない(中略)。今日、大多数の神社では拝殿が本殿の前に建っており、本殿の姿は見えないのが当たり前になっている(中略)。大きな拝殿の後ろに隠れている小振りな本殿の存在に気づかずに、そそくさと帰ってしまう参拝者の何と多いことか。しかし、このような事態になってしまったのは、明治政府の役人に責任があると言いたい(中略)。今日のように拝殿と本殿が連結されたのは、政府が全国一律に定めた近代神道祭式に問題があったからだ(中略)。装飾性や威厳に乏しい低格式な拝殿が正面の人目につくところにあって、格式の高い本殿の秀麗な正面は拝殿に隠されている。>

 拝殿が本殿と連結されるようになった歴史は新しいのです。

 

影響は古代朝鮮からも
 数年前、「一宮めぐり」をした際に、若狭国から近江国にかけて朝鮮の影響を強く受けた多くの神社が鎮座していることが気になりました。朝鮮には神社がないはず……と、頭の中にもやもや感が残ったのです。
 間もなくして岡谷公二氏の『神社の起源と古代朝鮮』に出会い、この疑問は解消しました。

 岡谷氏は次のように述べています。
 <日本の神道がアニミズムをベースとして出発したとしても、その後の神籬・磐座を祀る形態から仮設の神殿、常設の神殿への移行過程で、古代朝鮮、特に新羅の祠堂の影響を大きく受けたという痕跡も数多く指摘される。例えば渡来人が彼らの奉ずる神とともに渡来し、日本の神社建築が一般化する前の極めて早い時期に彼らの祠堂即ち神社を創建したらしいことなどである。肝心の朝鮮の方は、その後、仏教や儒教に席巻されてほとんど朝鮮半島の内部に神社の痕跡を残しておらず、従い神社が日本独自のものと考えるしかない状況に至っている。>

 

 神社は古代朝鮮の影響を受けて発展してきた可能性も高いのですが、今や完全に日本固有のものになってしまったというわけです。
 サミュエル・P・ハンチントンは『文明の衝突』の中で、世界の主要文明は、歴史的には15個ほど存在したが、うち7個は現存せず、現在は8個の文明に類型化できるとしています。中華文明、ヒンズー文明、イスラム文明、日本文明、東方正教会文明、西欧文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明の8個です。

 朝鮮、台湾、ベトナム、シンガポールなどは中華文明に含まれるが、日本はただ一国で成り立つ特殊な文明とされたのです。日本は、2000年の時を経て独自の文明を作り上げてきました。その中で中核の役割を果たし基底にあったのが、神道であり神社であったといえるでしょう。


5世紀以前の祭祀に「記紀神話」の神は登場しない
 『記・紀』に描かれた物語は古代からの歴史と捉えられやすいのですが、古墳時代初期と神道が誕生した時代とは、400年ほども違います。

 弥生時代の墳丘墓や古墳時代の古墳で行われたかもしれない祭祀と、現代に続く神道との関連はまったくないと言っても言い過ぎではないでしょう。
 三輪山で、太陽崇拝をベースにした原始的な祭祀が行われていたことは間違いありません。玄界灘の沖に浮かぶ沖ノ島にも巨岩祭祀遺跡があり、4世紀後半には祭祀が始まっていたようです。しかしその内容は、その後のアマテラスを頂点とする神道とは一線を画すものだったに違いありません。

 継体・欽明期の以前と以後では「神」の考え方がまったく異なっているのです


 さらに、古代の氏族の系譜が整いはじめるのは、5世紀後半以降です。古代氏族が代々直系で繋がっていたとは到底考えられません。とすれば、豪族の祖神も原初の時代から不変だったとは考えられないですよね。


 古代史を語る際には、神話や伝承を無視することはできませんが、注意深い姿勢も必要です。
 神代の出来事は、歴史ではなく説話ですから、『記・紀』をはじめとする各文献の間でも完全に一致することは少ないのは当然です。いろいろに語られ、いろいろに記録されているわけです。古代史を究めるには、神話の持つそうした側面に気をつけたいと思います。

 

 神話に登場する神々は、実在の英雄や権力者の伝承が元になっているのだという話もわからなくはないのですが、その神々の体系が整えられたのは6、7世紀になってからのことです。そこから700~800年も遡る弥生時代にそうした神々が本当に実在したのだろうか、冷静に考えればわかることです。

 地域に根ざした原初の神でなく、8世紀以降に、中央の神話をもとに変えられてしまった神名を、古代史検討の材料として使うのは、入口から間違っているわけです

 

 第14回のブログで述べたように、古代から不変の最高神と思われるようなアマテラスでさえ、最高神とされるのは7世紀半ば頃からですし、それ以前の最高神はタカミムスヒだったわけです。
 それ以前、日本列島の原初の文化はアニミズムやシャーマニズムなどをベースとし、天の観念はなく天の至高神もありませんでした。列島中に八百万の神が祭られていました。
 後世の分類でみれば国つ神しかいなかったのです。ヤマト国も当初は国つ神のオオモノヌシを祀っていたわけですから。

 

 古代史と神話は密接に関係するからこそ、神話を古代史と混ぜこぜにしてしまう愚を犯さないようにしたい。
 門脇禎二氏は「神話かぶせがひどすぎる」として、古代史関係の論著に対する不満を述べています。

 

日本の神の特徴は瞬間移動と無限分割
 神社名と祭神名にこだわり過ぎると歴史の真実を見誤ります。
 神社・祭神が同名であることをもって、同一の政治や文化の勢力圏があったと即断してしまうのは無茶苦茶です。
 熊野神社が日本中にあるからといって、 熊野の勢力圏が、 つまりスサノオの勢力が日本中に及んだということにはならないでしょう。

 

 『日本古代正史』を著した原田常治氏は、丹念に全国1631の神社の祭神と伝承を調べ上げて、その結果から日本建国のプロセスを描き出し、『記・紀』では謎の神であったニギハヤヒを偉大な大王として祭り上げました。
 また小椋一葉氏も同様の検証を行い、『消された覇王』などの中で、スサノオをオオヤマツミ、タカオカミ、オオワタツミなどと同一神とし、ニギハヤヒもオオモノヌシなどと同一神であったとしています。  両氏のアプローチは「神社伝承学」と呼ばれ、 古代史ファンのあいだで人気があります。筆者もそのロマンあふれる推論と新奇さに大いに惹かれるものを感じます。実は結構好きなのです。

 

 しかし、冷静に考えるとすぐわかることですが、神社の歴史は7世紀から遡ることはなく、しかも神社の祭神と伝承は古代から現代まで何度も変化しているのです。昭和や平成、令和の世に伝わっている今の神社の姿をいくら紐解いてみても、古代の姿、ましてや崇神以前の弥生の姿は再現できません。

 例えば、鹿島神宮の祭神はタケミカヅチであると誰しもが即答できます。しかしタケミカヅチが同社の祭神となるのは、中央で藤原氏が権力を握る8世紀半ば以降のことです。それまでの祭神は単に香島大神などと呼ばれていた地場の神でした。

 

 『記・紀』編纂の頃、今の有名古社のほとんどの祭神は、土地の名を冠した八百万神でした。「記紀神話」の成立後、 有名古社のスポンサーとなった豪族たちが、地場の神でなく「記紀神話」に登場する神々を祭神として祭っていったのです。
 祭神の書き換えです。

 

 日本の神は、瞬間移動と無限分割(勧請)という手品のような特性があるので、祭神の分布から平安時代の頃を類推することすら困難です。

 瞬間移動は、地鎮祭や結婚式の際の神まつりで私たちにもおなじみですね。
 有名古社(本社)の創建は7、8世紀以降ですが、平安期から江戸末期にかけては多くの地で本社からの勧請が行われてきました。江戸時代には稲荷社のあまりの多さに「江戸名物、伊勢屋、稲荷に犬の糞」という川柳がうたわれたほどです。

 神社の創始の姿を検討する時は、配神というものも削ぎ落として考えるべきでしょう。無限分割によって、本社からの勧請が1300年もかけて行われてきたわけですから、古代の姿を探る際、配神にとらわれることにほとんど意味がないことは明らかです。

 


 今回は、総括的に「神社の起源と祭神」について述べましたが、「一宮」をはじめ個々の有名古社の創建・由緒・祭神・古代史との接点については、今後、状況の許す限り言及していくつもりです。当世はやりのパワースポットやご利益関連については一切言及しません。

 

 当ブログは今回まで、古代史の奇説・珍説の類(いわゆるトンデモ古代史)を糾弾するため、神話に過度に依存することの弊害と誤りについて述べてきました。ちょっと手間をとり過ぎました。ここで、ひとまずフェアウエイに戻ることにします!

 次回から局面を変えて、「理系の視点」で古代史を再考していきたいと思います。

 

参考文献
『神社の本殿』三浦正幸
『神社の起源と古代朝鮮』岡谷公二
他多数