理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前後から6世紀頃までの古代史を再考する!

9 日本における文字の古史料

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文字の古史料
 日本人が文字に接触してから使いこなすまでの歴史は、おおよそ以下のような経緯をたどったと想定されます。

 

 まずは接触のエビデンスです。
• 西暦57年===志賀島で発見された金印に刻まれた「漢委奴国王」の文字。
•1~2世紀====弥生遺跡から出土した銅銭に鋳出された「貨泉」の文字。

 この二例は確かに漢字の伝来ですが、漢字の「伝来」と「使用」とはまったく次元が異なります。

  漢字の使用は、ある一定の文化水準になって初めて可能になります。
 金印や貨幣に刻まれた漢字は、弥生時代の日本人の目には、単なる権威の象徴、あるいは呪力を持つもの、装飾的な模様としか映らず、文字の機能は理解できなかったようです
 その証拠に、4世紀にかけて日本でつくられた銅鏡の銘文の漢字は模様のようになっていて、漢字を理解していたとはまったく考えられないのです。
 『魏志倭人伝』には、239年に倭国王が上表文を奉ったとありますが、実際にどのような状況であったのか、疑問点が多く信用できません。

 また、伊都国の拠点集落である三雲井原遺跡から石硯が出土し、他にも北九州や松江など数か所で弥生時代に遡る硯の出土例があります。最近になって、吉野ヶ里遺跡でも石硯や削刀が出土しました。
 これらの出土から、日本列島の弥生人が文字を使用していたのではないかという推論もあるようですが、三雲井原遺跡から出土した大甕に刻まれた漢字(「竟」の一字)は文字の体をなしていません。やはり、弥生後期の時点では漢字が装飾記号のように扱われていたという理解が正解のようです。

 田中史生氏は次のように言います。
 <漢字の記されたモノを威信財として利用することと、自ら漢字を使いこなし、それを支配・管理・伝達の手段として活用することは、次元が異なる。>

 

 その後、4世紀半ば~6世紀半ばに、百済から漢字・漢文が伝来し、4世紀末から5世紀初めにかけて、一部の上層階級のあいだで漢字・漢文の学習が始まっていたのではないかと考えられます。
 当然、この頃から渡来人の定住が始まっていたのでしょう。最近、奈良県明日香村の市尾カンデ遺跡(4世紀半ば)などで渡来人のものと思われる大壁建物跡(国内最大級)が発掘されています。

 

 その後のエビデンスです。
• 369年===七支刀の銘文。
•5世紀初頭(『記・紀』では応神天皇の御代)===百済から王仁が渡来して『論語』と『千字文』を献上。

•5世紀に、『記・紀』によればウジノワキノイラツコが王仁から典籍を学ぶ。
•5世紀半ば===江田船山古墳から出土した太刀に刻まれた文字。
•5世紀後半以降===稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文。
•6世紀前半===仏教伝来(経典)は538年頃か。
• 620年===天皇記・国記の編纂。

•7世紀になると、木簡の出土、多数。
•7世紀後半~8世紀前半===『古事記』『日本書紀』『風土記』の編纂。


 『古事記』は5~6世紀にシナ江南地方から伝わった呉音で、『日本書紀』はこれに100年以上遅れる隨・唐の漢音で書かれています。

 このように見てくると、6世紀より前の日常的な文字使用の事例は、現時点では確認されておらず、おそらく、5世紀後半か6世紀以降に、「体系的な文字の使用」が始まった考えられます。
 それでもなお、知識層以外の一般層にまで文字が流通していた可能性は低いでしょう。

 

 この数十年のあいだに膨大な数の木簡が発掘された結果、犬飼隆氏によれば、日本語の文を書くための基礎技術は7世紀のうちに開発済だったことが明確になったようです
 7世紀後半から8世紀前半の日本において、すでに文体の主流は変体漢文だったのです。太安万侶が『古事記』の「序」の中で、古い言葉を書き表すのに腐心し、古事記のような文体を自分の創案であるかのように書いたのは嘘ということになります。

 

 森浩一氏は、紀元前後の日本人は、文字を読めたのではないかといいます。無文字時代というのは先入観で、銅鏡と漢字の銘文もある。倭人伝のなかで、卑弥呼が使節団を派遣した時に、シナの皇帝が詔書をことづけている。どこまでの人が読めたのかは別だが、誰かは読めた可能性がある、というのです。
 しかし、古代史の実態を解明するにあたって、単語から成る銘文や、装飾記号のような漢字よりは、体系的な文字記録の方がはるかに重要なのは言うまでもありません。

 

 筆者は、人・モノ・情報のネットワークが整備されないと広域の統治は難しいと考えますが、なかでも体系的な文字の使用を最重要の要件と位置づけています。

 

 三浦佑之氏の表現を借りると、日本がシナから導入した制度としては、「法としての律令、根拠としての歴史書、経済としての貨幣、中核としての王都であり、それらの諸制度を統括し、横(役所と役所)や縦(都と地方)を自在につなぐのが漢字という伝達手段」であり、以後、日本は国家として大きく発展していくわけです。

 「ことば」の獲得に続いて、文字の発明と使用、印刷術の発明が人類の飛躍に寄与しました。そして今日、情報革命(コンピュータとインターネットの技術)が人類をさらなる飛躍に導いているわけですね。実はこうした歴史の将来に少なからず危惧を覚えるのですが。

 ついでになりますが、漢字の伝来としてはもっとも早いとされる漢委奴国王印(金印)について、次回に若干の補足をします。

 

4世紀以前の事象をどのように捉えるか
 最後に、鈴木董氏が著書『文字と組織の世界史』の中で、述べている言葉を紹介して、本稿の総括とします。

 <情報の伝達と蓄積についてみても、確かに動物たちも音や身ぶりで情報を伝達する。なかにはかなり込み入った高度のものもあるようである。しかし、言語のような複雑な伝達の媒体、シンボルの体系は、ヒトのみがつくり出した。しかも言語を得たヒトは、それを可視化して伝達する媒体として、文字をつくり出した。文字の発明によって、ヒトの情報の伝達と蓄積の能力は、量的・空間的に、さらに時間的にも飛躍的に拡大した。そして有文字文化が、次第に文明的にも多くの面で無文字文化に対し比較優位を占めるようになっていった。>


 日本において、文字というものが4~5世紀頃まで、各地の支配者層、知識層のあいだで一般化しておらず、ましてや文字を連ねた文章という表現方法がなく、したがって4~5世紀頃までの文字記録というものが残されていなかったとすれば、4世紀以前の歴史というものは、曖昧な伝承、個人に頼った口伝に寄らざるを得なかったといえるでしょう。
 『記・紀』に描かれた4世紀以前の事象は、当時の事実をどこまで反映したものなのか。懸念はますます大きくなるばかりです。
 同時に、古墳時代のきわめて早い時期からヤマト王権が広域を支配したという学説にも大きな疑問符がつきます。文字なくしてどうして広域の統治ができたのでしょうか。このことは古代史の紐解きに避けて通れないので、いずれ詳述します。


参考文献
『文字と組織の世界史 ~新しい比較文明史のスケッチ~』鈴木董
『漢字伝来』大島正二
『ぼくの考古古代学』森浩一
『木簡による日本語書記史』犬飼隆
『渡来人と帰化人』田中史生