<初日の出>
令和2年を迎えました。年始にちなんで暦について書いてみようと思い、正月早々いろいろと調べてみました。
古墳時代の初め頃の日本には「暦」といえるようなものはなく、四季の変化を感じ、春になれば種をまき秋になれば収穫する、また月のめぐりを数えておよその季節を知るというような素朴な生活を送っていたと思われます。
日本人が時間の流れを定量的に把握したり、それを表現できる「暦」の存在を知ったのはいつ頃からでしょうか。
暦ことはじめ
日本への「暦」の伝来や使用開始時期については諸説ありますが、一般的には6世紀から7世紀はじめ頃といわれています。
まずは考古資料から見ていきます。
古墳時代の刀や鏡に日付の刻まれたものがありますが、日常の用に供したかははなはだ疑問とされています。
〇 群馬県蟹沢古墳の三角縁神獣鏡(正始。3世紀半ば頃)
〇 石上神宮の七支刀(泰和または泰始。4世紀中頃または5世紀中頃)
〇 埼玉県稲荷山古墳の鉄剣(辛亥。5世紀後半または6世紀前半説も)
〇 福岡市西区元岡G6号墳の太刀(庚寅570年の銘文あり)
次に文献です。
暦に関するいくつかのエビデンスを『日本書紀』などから拾い出して並べてみると……。
553年6月・・・百済に暦博士(こよみのはかせ)を当番制によって交代させることや暦本(こよみのためし)の送付を依頼(『日本書紀』に暦の文字初出)。
554年 2月・・・求めに応じて百済から暦博士 固徳王保孫(ことくおうほうそん)が来日。
602年10月・・・百済の僧観勒(かんろく)が来日、暦本などを献上。陽胡史(やごのふびと)の先祖 玉陳(たまふる)が暦法を、大友村主高聡(おおとものすぐりこうそう)が天文・遁甲(とんこう)を習う。
604年(推古12年)・・・ 平安時代の『政事要略』に、推古天皇12年春正月戊戌の朔から暦を頒布し暦日を初めて使用と記載されているが、真偽は定まっていない。
675年(天武4年)・・・ はじめて占星台を建てた。
690年 11月・・・勅を奉ってはじめて元嘉暦(げんかのこよみ)と儀鳳暦(ぎほうのこよみ)を使用。月の満ち欠けを決める方法の違いから、しばらくの間、元嘉暦と儀鳳暦の両者を比べる必要があったのではないかと解釈されている。
697年の文武天皇の即位以後は儀鳳暦のみが使われるようになりました。
〇 元嘉暦(げんかれき)・・・6世紀頃、百済から伝えられた宋の時代の中国暦である。
〇 儀鳳暦(ぎほうれき)・・・中国暦で690年から元嘉暦と併用された。697年からは単独で使用された。
古代から江戸時代初期までは、各時代の中国暦を輸入したものが使われた。
〇 宣明暦(せんみょうれき)・・・862年の「宣明暦」以降は輸入が途絶え、江戸初期まで、800年にわたってそのまま使っていた。
江戸時代初期の天文学者であった渋川春海が、独自の思想にもとづいて神武即位紀元まで遡って「日本長暦」を編纂した(1675年)が、これが皇紀や紀元節などの典拠ともなっている。
「日本長暦」の8年後、渋川春海によって、西洋暦も参考にした初の国産暦「貞享暦」が作られた。明治改暦により、1873年(明治6年)1月1日からは「グレゴリオ暦」が使われ現在(令和2年)に至っている。
ちなみに天文学者の渋川春海は囲碁が本職(安井算哲)で、「初手天元」を指した初めての棋士と言われています。「初手天元」はAIの発達した今では悪手とされていますが、北極星に魅せられた彼らしい渾身の一手だったのでしょう。
暦なき時代の歴史と『記・紀』の存在意義
6世紀より前の、「文字の体系」がなく、しかも暦までなかったと推定される時代に関する『記・紀』の記録は、どの程度まで信用してよいのでしょうか。
確かな史実と思われる個々の出来事についても、その時期や、個々の順序は、長い間にわたって伝承されれば、時間軸の上ではかなり曖昧になっているはずです。したがって7、8世紀に編纂された『記・紀』の記録は慎重に読み解く必要があります。
一方、考古遺物はその一つひとつが、歴史を「点で捉えている」だけで、それだけでは歴史の輪郭が明確にはなりにくいのも事実です。
『記・紀』については、信頼性に対する評価は様々ですが、ともかくも点ではなく「一本の線として体系的に纏められている」点にこそ、『記・紀』の存在意義があると言えるでしょう。
第5回のブログで言及したように、津田史学は『記・紀』の非科学性を徹底的に批判しました。この津田の影響力で、『記・紀』は、大東亜戦争後、外国史料の補完的な引用物に成り下がってしまいました。
そうかといって、シナの史書である『魏志倭人伝』『宋書倭国伝』などを金科玉条とすることも適切ではありません。視点も異なるし、夫々がかけ離れた時代を点で捉えて記述しているので、これを連綿と続く歴史の輪郭として理解することは困難です。輪郭を描かずして歴史を綴ることは、つまりは枝葉を見て木を語ることに等しいでしょう。
古代史を真に歴史たらしめるためには、どれだけ不備であろうとひたすら『記・紀』から始めて、またそこへ帰っていかなければならないと考えます。
第1回のブログ以降、神話や伝承に向き合う場合に『記・紀』を妄信してはいけないと多言を弄して警鐘を鳴らしてきましたが、一方で『記・紀』の存在意義はまさしく体系的な記述にこそあるわけです。
文字の体系がなく暦もない4、5世紀以前の事象は、その時期や順序が滅茶苦茶になっている可能性は高いですが、ともかくも歴史の輪郭を理解するには『記・紀』が欠かせません。
私たちは、『記・紀』を下敷きにして、そこに断片としての考古遺物や記録や事実を載せていき、史実の正確な年表を作成していかなければなりません。
当初は相互になんの繋がりもないかにみえる断片を、一本の線の上に位置づけることによって、はじめて断片が格別の意味をもって見えてくるわけです。
古代史ブームの火付け役になった松本清張に次のような言があります。
<乏しい史料は、ぽつぽつと散っている「点」である。「点」と「点」の空白に「線」をひいてつなぐのが、推理である。だから、推理がまちがっていれば、線の引き方もまちがうわけで、さらに見当ちがいの「点」にそれをつなげば、結論はとんでもない方向になる。歴史上の推理も、探偵がナゾを解いていくのとおなじである>。
確かに、古代史の謎解きには推理が欠かせない一面がありますが、「点」と「点」をつなぐ際に、出来るかぎり理系的視点に基づく推理を心がけたいものです。